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2006年5月17日 (水)

激動の年月を生きた家族の物語

初代:竹森郁太郎「1880ー1943」国民新聞社員「社長 徳富蘇峰」

二代:郁太郎長女ちえこ「1909-」日曜画家 3代「1931-」デザイナー

生活した土地:香川県丸亀市:東京市世田谷村三軒茶屋:渋谷区隠田:原宿「神宮前」:愛媛県松山市:北海道函館市:桧山郡江差町

予は明治13年2月丸亀市風袋町に生まれた。この年は大正天皇がご生誕遊ばされた翌くる年であって、西南戦争が終わって3年目、自由民権を唱導した板垣退助が自由党を創設した年であるから、国内多難、日本はこれからどうなっていくのかと言う心配な空気が全国に漲っていたのである。勿論、生まれたばかりの予が、そうした事情を知ろう筈もないが、そうした雰囲気の裡に予が呱々の声を上げた事だけを記しておく。

予の家は風袋町の東寄り、土提の丁にあり、土提の上には10数株の老松が亭々と生い繁り、昔の城濠をまざまざと残していた。家は町の中央に位置し朝夕、老松を透かして

真正面に陶山「土器山』、やや南に寄って讃岐富士の飯野山に相対していた。

家の作りは、この辺りに多い士族屋敷のそれであった。入り口に屋根付の門があり、入ると内門まで踏み石が並び、右の板塀に覆い被さるように枝ぶりの美しい老松が立っていた。間取りは広くはないが、比較的に良く出来ていて、住み心地は案外良かったのである

殊に裏庭が広く、そこには棗、杏などの果樹植えられていたので、我ら子供たちを喜ばしたのである。予の生まれた時は父母と母の父との3人暮らしであったから、予が生まれて

両親よりも、むしろ祖父の喜びが大変で、目の中に入れても痛くない程可愛がったそうである。3年して弟郁夫が、又3年して末弟の光が生まれた。予の住んでいた家の近くに専念寺という寺があり、祖父はいつも予を抱き、予を背負い、予の手をひいてお寺の内庭

につれて行って遊ばせるのが常であった。そして予が階段をよちよち登り欄干をつたって遊ぶのを、祖父は嬉しそうに、屈んで眺めるのが例であった。

ここで順序として家の付近を書いてみよう。南から、武川利作、中村嘉吉、梶弥一、落合庄次郎、杉山伝内、橋野万蔵、西岡某、磯崎某、田辺某、が居住していた。武川さんは薪炭商で、男が2人、中村さんは大工で女の子が沢山いた、梶さんは小学校の先生、落合さんはその弟と土細工をしていたので、皆は土瓶屋と呼んでいた。家の南隣りは橋野さんで、この町きっての金持ちであり、大きな構えであった。その隣りの西岡さんは小学校の先生、磯崎さんは薪炭商、田辺さんは経師屋であった。この10軒はすべて士族出身であって、少し前までは腰に刀を差した連中であるから、商売はしていても、その子供たちの躾は、比較的に厳格で儀礼もまた、昔ながらの風習が残されていたのである。予は6歳になって小学校にはいった。小学校と言っても、今ある学校ではない。家から程近い寺町にある威徳寺という寺がそれであって、生徒の多い寺子屋と見れば間違いない。寺の本堂が教室で、庫裏が職員室、勿論すべてが畳で、その上に黒板が右向き、左向きに置かれていた。寺の半鐘が鳴ると、予ら数十人の生徒は本堂の隅に積みかさなねてある文庫を持ち出し、畳の上にきちんと座って教えを受けるのである。科目は読本と算盤と習字の三つで、その教科書は手習い草紙と石盤、硯、蝋石、だけである。いよいよ授業が始まると予らは文庫の蓋を取って、かけごと称する内箱を裏返しにして上に置き、授業が終わると、全てのものを中におさめて、所定の場所に積みかさねる、と言う事になっていた。

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かつて私もブログを開設しましたが、見事に
三日坊主で終わりました。続けるコツは毎日何でもいいからつまらないことでも、書き込みをすることだと思います。続けてるうちに
格好が整ってきますよ。頑張ってね!!

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