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2006年6月27日 (火)

友愛会の設立 19世紀の少年、あー頼もしい

初代 郁太郎の友達は、、、

どうしたわけか、予の町内には、同年齢の学友はいなかった。汐入川を隔てて向こうに、後に親戚になる梶完治がいた。梶は幼年時から秀才で、眉目秀麗、8歳で、すでに四書を暗誦していた。土居というところには三野熊雄がいた、丸亀では有数の富豪の子息で、その広大な家は、連隊長でなければ借り得ないと言う程、立派であった。予の裏の鉄砲町には、父親が陸軍大尉の永野義元、先生の息子の渡辺豊、傘商の父を持った吉田幸太郎、そして中でも一番親しかったのは萱町の長谷川等と円光寺町の浜田伊三雄で、長谷川は丸亀地方裁判所で鬼検事と恐れられていた長谷川和愛と言う人の養子で、生地が高知県のせいか、其の言葉ははっきりとして、又、姿態もどこかきびきびとして、見るからに剛健のようであった。予はしばしば彼の宅を訪ねた。彼もまた予の宅にきた。そして、

継母の厳格すぎる不平を、予の母に訴えるので、母もまた、心から同情を寄せ、我が子同様、親切に待遇した為、終いには、自家で涙するような事があったら、慈母に訴えるように駆けつけるのが常であった。彼の部屋は玄関を入った右側の一室で、そこには教科書の他に、色々の雑誌があった。予は彼を訪ねる度に、小国民と言う雑誌を読みふけるのが常であった。予が将来、新聞記者になり、文学的興味を持つ様になったのは、この時の小国民耽読が与った様な気がする。惜しい事に、彼は高等小学校在学中に肺病に罹り、墳墓に眠ってしまった。今一人の親友、浜田は多度津の生まれで、父親は高極藩

「丸亀藩の分家」の目明しであったが、事志と違い、丸亀に移り、一家で籤細工をしていた。当時予は友人達より幾らかマセていたとみえ、皆から比較的に敬重され、よい意味での餓鬼大将であった。成績が上々でもなく、家に金が有ると言うのではないが、多くの学友は常に予に集まり、予の指示に盲従するのだった。そうした事から、予を会長として友愛会と言う組織が作られたのである。メンバーには前記の友人達と遠くから十数名が参加し、毎週日曜日、会員の宅を順番に廻って演説をするのである。演説と言っても、座敷や応接室を使うのではなく、玄関や庭先に机を持ち出して、道を歩く人々に向かって、いはゆる大道演説をするのである。今考えると、随分大胆な仕組みであったと思う。会長である予は藤田と言う古本屋から買ってきた演説集から一説、一説を予め暗記し、手をふり

胸をそらして演説をする。予が得意にしていたのは「案山子の説」と「雄弁論」で、これを演説すると、いつも沸くが如く喝采を博したのである。或る夕暮れ、当番である永野の家で会が開かれた、玄関にランプを吊るし、机とみかん箱を持ち出して、会員が代わる代わる演説を始めた。そうした事は丸亀ではなかった事であったので、大人も子供も非常に珍しがり、見る見るうちに門前市をなす盛況であった。そして下手な演説をすると、時々半畳や野次が飛び出し、小さい講師が顔を赤らめ、頭を掻いて引き下がると、観客に笑殺される事もあった。予は会長であるというので、最後に引き出された、得意である雄弁論を一席やると、突如、何処からともなく大音声で「19世紀の少年 あーー頼もしい」と多少の節をつけた声が聞こえると、暗闇の中の聴衆から急霰のような拍手が起こった。この声がどれだけ我々会員を力ずけてくれたものか。一同は気色満面、アー愉快だ、面白いと、会は益々発展したのである。

2006年6月25日 (日)

第八女学校え入学

二代目 ちえこ

我が家も、五男二女、親戚の梶家も、二男二女、の大家族となった。ゆえに、長女の私が女学校え進学する事は、費用の事を考えても、子供心には大変なことであった。6年生になると、受け持ちの先生は九州から来た、農沢大九郎と言う勇ましい名前の先生だった。授業熱心で、出来ない生徒には白墨を投げつけたり、体操着を忘れた子供には、すぐに家にとりに帰らせてから,1時間も校庭を走らせたり、皆、蔭ではぶつぶつと怒っていた。私だけは、何時もニコニコしていたので先生の気に入っていたらしく、渋谷の宮益坂にある下宿に、勉強に通って、つるかめ算の厚い問題集を一生懸命に勉強した。当時は群立で、やがて府立になる第八高女は月謝が4円だった。大勢の子供がいる両親は、娘が安い公立に行って欲しいのは当然であろう。荏原小では5人の人が受験した。試験はメンタルテスト、又、ある形の中に絵を入れたり、裁縫の運針の試験では、決められた時間で、如何に、手ぬぐいに赤い糸で沢山縫えるかと言うテストであった。しばらくして、入学の発表があり、梶家の敏子さんだけが落ちた。私は一生懸命に慰めて、両親に、何と言ったら良いか、二人で相談しながら帰った。その後、敏子さんは青山女学院の補欠を受けて、無事に入学した。私立の青山は月謝が6円だった。私は毎日、渋谷まで玉電、山手線で品川駅で乗り換え、大井町で下車、5分歩いて学校に着いた。第八高女には当時、小説家の北村透谷の未亡人「英語」、詩人、佐藤春夫の弟の大鹿卓先生、他、文学的な先生がいっぱい、いらした。東京の他の女学校より、校則が厳しかったように思う。昔も今も、女の心情は同じで、誰でも、人よりは美しくありたいと願っている。一人がやり出すと皆がすぐに真似をする。着るものは、着物の上に袴を着け、バンドを締める。木綿袖の長さは1尺、靴下は黒、頭の髪はマーガレット、それも首の所に着く長さに決められ、長い時は後ろに丸める。所がその時、パサッとおかっぱに切った人が現れ、皆びっくり仰天したものだ。卒業間じかの5年生になって、袖の長さを長くしてくれと皆で談判しにいったけれど聞いてくれなかった。丁度其の頃、木綿でも、藤紫とか、色々な柄の着物が出てきた。新銘仙と言う木綿に他の糸を混ぜた着物が出てきて、先生たちは判定に困ったらしく、次の年からは殆ど洋服になった。一週間に一回、担任の先生が教室に入り、生徒のカバンや、机のなかを点検した。ラブレターが見つかったり、私のように先生の似顔絵を描いたのが見つかったりすると、本当に恥ずかしかった。朝礼の時、物差しを持って、着物の袖丈を測る先生もいたが、今考えても、どうして長くしてはいけないのか、判らない。帰りに渋谷で会う東洋英和女学校のお嬢様は、銘仙の長い袖をきれいに、長襦袢のふりを揃え胸高に袴をはいて、それはそれはきれいだった。較べて、私の着ている絣の木綿の着物では何時も、隠れるようにこそこそと、玉電に乗っていた。でも。それだけ喧しい校則の5年の教育のお蔭で虚栄心が無くなり、友達は皆、質素な生活をする人が多かったと思う。

2006年6月20日 (火)

大正時代の子供の天国

ちえこの弟 T が遊んだ弁天堰「せき」

大正の初めの頃ですが、今の太子堂二丁目から四丁目にかけての北側崖下を、烏山用水と言う川が清冽な水を湛えて流れていました。現在の太子堂三丁目から五丁目に至る、用水北側の低地は、太子堂八幡様の森の際まで、一面の水田でした。烏山用水は、井の頭方面が水源で、三宿、池尻の北側を流れて、代田方面から来た北沢用水と合流し一本の川となって目黒に行きます。昔、用水には、随所に堰が設けられていました。堰といっても、都会育ちのこどもには、ぴんとこないでしょうが、木造の小さなダムの様なものです。従って、堰の上流には、いつも満々と水が貯えられ、溢れた水が滝となって激しい水音を立てていました。堰によっては、水田の感慨だけではなく、滝を利用して水車を回して、脱穀や小さな工場の動力に使っていました。又、これらの堰にはそれぞれ名前が付けられていました。若林駅の近所は天神橋、中堰、バリウム堰、弁天堰、黒ん坊水車、

なんと言っても有名なのは、弁天堰でした。そこが当時の子供たちの水浴場として、最も良い条件に恵まれていたからで、夏休み中、終日、子供達の歓声が聞こえていました。

夏の弁天堰は子供達のメッカだったのです。私達は教学院の墓地の周りの麦畑を突っ切り、雑草のおいしげった3メートル余りの崖をおっかなびっくり、降りて弁天堰に通いました。崖の下には大きな胡桃の木が一本あって、その横に小さな弁天様の祠がたっていました。弁天堰は幅4メートル、高さは2メートル位、両端の擁壁と舗床部はコンクリート造りで、堰の上には30センチの丸太が懸けられ、手摺もついていました。当時、堰には管理員がいて、大雨の時など、水量の調節に当たっていたようです。子供達は付近の草原の上に着物を脱ぎ捨てて、朝早くから夕方まで思う存分水遊びをして楽しみました。

2006年6月16日 (金)

四国で一流の漢学者、中村先生

中村先生は、通称正蔵、桑字は子楡、後に三焦と号じた。

丸亀藩士、弥門の五子、三歳の時、父を喪い、後、僧侶になるが、読書を好んで、呪梵を厭うので、僧籍を離脱して儒学を志す。筑前にある亀井照陽の門弟となり、又、帆足愚亭に師すること七年にして、帰国。嘉永二年、藩の儒員に挙げられ、藩学正明館の副助教、兼、詩文係となった。文久三年、世子の侍講、正明館の教授となったが、故あって藩学を去る。明治四年、廃藩の令が下り、同五年、学制頒布と共に、小学教師となるが二十一年、退職、私塾を開いて、多数の師弟を教育されたのである。予は妹尾先生の言われるがまま、先生の丁寧な紹介状を持って、土居の中村先生をお尋ねした。先生のお宅は晴気楼といって、亀山城の外濠に面してをり、門口には三抱えもある老松が濠の水に影を映していた。予は、その日は特に袴と新しい羽織をつけ、子供心にも、威儀を正して訪問したのであった。その時の先生は童顔に白髪、特に長い顎鬚がふさふさと垂れていたのが、如何にも、豪い先生であった様に、今なお記憶に残っている。先生は紹介状を読みながら、「あんたか、大分、学問が上達したようだね、結構、結構。しっかり、おやんなさいよ、漢文は読むだけではいかん。良くその意味をかみこなさなければならん。老人、これから、ボツボツ見てあげよう。来なさい、来なさい」こんな事を言われた様に覚えている。しかし。これから通うことになった時、先生は病気に罹り、残念ながら、先生の訃報に接したのであった。予は妹尾先生につっぱなされ、中村先生に逝かれ、結局、妹尾先生に教わっただけの漢文で、一生を賄うことになったのである。今、思い出しても、残念千万の事と思う。予は、昼間は南条町の高等小学校に通い、夜、夕食を済ますと、同じ南条町にある亀陽学舎に通った。学舎は、今日で言う上級学校えの予備教育をほどこす所であって、そこの先生は、いずれも小学校の先生であった。予は大岡先生に数学を、片桐先生に英語をならったが、どちらかといえば、英語に重点をおいたので、教科書のナショナルリーダー第一から、代四まで、何時のまにか習得したのである。この様にして、朝は未明から、夜は10時頃まで休む暇もなく勉強したので、自分なりにかなり教養が出来たように感じたが、それでも、なお向学心を満足させる事ができず、日曜日の如きは、態々、有名な先生を坂出や多度津あたりまで、訪問して質疑、応答を聞く事もしばしばであった。こうした関係で、面白いことには、履物が直ぐに壊れるのである。竹皮の草履は

一週間、朴歯の下駄は半月、流石の父も、これではかなわんと、ある日、母の縫った鼻緒の芯に針金を捩って入れてすげかえたのである。それを履いた予は僅か二日にして足から血を出し、翌日からは下駄も草履も履けぬ傷を拵えてしまったので、この迷案である

鉄芯の鼻緒は、元の鼻緒に変わったのであった。如何に予が毎日、よく歩いたか、之によっても知られるであろう。

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2006年6月10日 (土)

明治の母から聞いた昔話

二代 ちえこ 「母の思い出」

私の母は働き者で、五男二女の着る絣の着物、袴の洗い張りから仕立まで、総てをこなし、夕食が済むと、子供たちを集めて、色々なお話や色々な歌を歌ってくれた。父もまた

子煩悩で、月給が出ると子供達に本を一冊と帳面と鉛筆を買ってくれた。日曜日に母と子供たちが外出して夕方に帰ると、父は食卓に山のようにてんぷらを作ってまっていた。

母も忙しいので、父も勤めの合い間を縫って、子供たちの世話をした。八畳二間の部屋にいっぱい布団を敷くのも父の役目、夜中に布団をはぐっているのを見回って布団を掛け直すのも父のお役目だった。ご飯を食べ、それぞれの勉強がおわって、寝る時間になると、皆が布団にもぐって、こわごわと母の話を聞くのだった。

蜘蛛のお嫁さん

昔々、けちな男がいた。お嫁さんを貰いたいが食べさすのが嫌だ。何とか、ごはんを食べないお嫁さんがいないものかと、広告を出した。毎日色々な女の人が訪ねてきたが、全然食べない人はいなかった。ところが、ある日、訪ねてきた女は、私は全然ご飯を食べませんと言う。そこで、しばらく家に入れてみたが、ご飯は食べなかった。ところが、米びつの米は毎日、だんだんと減っていく。男はある日、外出と見せて、家の窓から様子を見ていた。女は、見られているとも知らず、頭の髪をざんばらにして、米びつからはかりの入れ物で米を掬ってざーざーと頭の上から入れ始めた。男はそれを見て、腰が抜けるほどびっくりしたが、そ知らぬ顔をして家に帰り、女にそろそろ、お里に帰って来たらと薦めた。お土産を持たして、女を送り出した後から、男は後をつけて行った。夏の日に照らされて暑いのか、女は大きな木の根っこに腰を下ろして休んだ。すると、向こうの方から、ごそごそと小さな蜘蛛の子が、ぞろぞろと母親を迎えにやってきた。男は、またもやびっくり仰天、大きな声を出す所だった。蜘蛛は頭の上の口から食物を食べると言う。男は人間の女に化けた蜘蛛の母親に恐れ入って逃げ出したとさ。

山姥の話

昔々、ある所に、海で取れたお魚に塩をして、峠を越えて、隣村まで売りに行く男がいた。

男は大八車にいっぱいお魚を積み、峠の坂道を登りだした。しばらく行くと、おーいと言って、髪振り乱したお婆さんが追っかけて来た。魚をよこせと怒鳴っている、見ると山姥だ。

男は恐くなり、魚を一匹放り投げた。又、しばらく行くと、追っ駆けて来て、大声で魚をよこせと言う。とうとう峠の上に来た時は、魚が一匹も無くなっていた。山姥が魚をむしゃむしゃと食べている間に男は空の車を坂下に走らせた。一軒の大きな家に逃げ込み、二階に隠れたが、その家は山姥の家で、暫くすると、山姥が、あーー疲れたと言いながら、帰ってきた。山姥は久しぶりに、魚でお腹がいっぱいだと言いながら、大きな釜に水を入れてかまどの火をつけた。二階で様子を見ていた男はお婆さんを釜の中に放り投げて、蓋を閉め、錘を載せた。山姥のお婆さんは段々熱くなる釜の中から、早く出せと怒鳴りだした。

男は今のうちとばかり、一目散に坂を転がり、くわばら、くわばら、と逃げていったとさ。

2006年6月 8日 (木)

高等小学校に入学

初代 郁太郎のお勉強の内容は?

予は小学校を卒業して、南條町にある高等小学校え通う事になった。当時の校長は吉田喜代治と言う先生で、予の家の並びにある武川さんの弟であった。この校長は、丸亀の学校教員中の最古参で温厚、篤実「とくじつ」、生徒は勿論、父兄からも、ひどく崇敬「すうけい」せられていた。家から南條町までは、子供にとっては、かなりの距離であった。予は毎朝、母の縫ってくれた袴をはき藁ぞうりをつっかけて通学した。この頃、予の父は今で言うアクセサリー「金銀細工」の製作をしていたが明治以後世相の変化で注文が減り、家計は極端に窮迫していた。それ故に、予と弟の学校通いつき、母が知り人に会うと、子供二人の学校通いで、骨が折れますと、何時もこぼしていた。予は或る時、一冊幾銭かの読本さえ買うことが出来ず、友人から借り受けてきて、夜遅くまで、引き写しをし、それを学校で用い、其れに気ずいた先生は、挿絵が本物と変わらずに描かれている、と言って褒められたことを覚えている。当時の授業料は、一ヶ月二銭五厘であった。しかし両親も、予ら兄弟も、貧乏人らしい振る舞いはせず、あくまで、ぼろを外に見せず、いつも家庭は、明朗に、外界えの義理をいっさい欠かさず、予らも又、元気に、溌剌として修学を続けたのである。しかも両親は、それに満足せず、予ら兄弟を一角の偉いものにしたいと言う欲望から、朝は妹尾隆次郎と言う漢学の先生について漢書を、夜は亀陽学舎と言う補修塾で英語と数学を習ったのである。妹尾先生は、幼年の時、炬燵の火で火傷を受けて終生足が悪かったが漢学の素養は相当なもので、予は友人の吉田と言う米屋の倅とともに毎朝5時ごろ、門口で、先生が開門するのを待って飛び込み、教えを受けるのが常であった。予が最初に教わったのが、日本外史で、それは、貧乏な我が家では到底購うことは出来ないので、藤田と言う古本屋から損料で借り受けたのである。いつしか日本外史24巻全部を読み終わってしまった。次は日本政記であるが、この本が無い。先生は態々父を訪ねられ「ご子息の上達は驚くべきものがある、是非私の知っている総てを教えたい。あなたの方で、この本を見付けて貰えないか」と相談されたのである。予の父にそうした才覚が有ろうはずも無く、頗る当惑したのである。しばらくして、ふたたび妹尾先生が見えられ、「やっと私の学校の書庫からみつけましたから、これで教えましょう」と言ってくれた。父と予は飛び上がらんばかりに喜んだのであった。それから、先生の好意によって、日本政記を習得、続いて論語、孟子、中庸、さらに国史略、十八誌略、春秋左伝に及んだ時、先生は「もう大分教えたが、これからはもっと難しくなるから、土居の中村先生に紹介するから、そちらえ行ったらどうか」と言われたのであった。

2006年6月 7日 (水)

月に一度のお縁日

二代  ちえこ

月に一度のお縁日の日は明るく賑やかであった。親戚で近所に住む梶のおばさんは何時も丸髷を結っていたので頭の上は丸はげであった。お寺の境内を出た道の向こう側は駒沢村で、細い路地の左側に髪結いの小母さんが住んでいて、何時も黒い前掛けをして、黒い風呂敷を抱えて梶家にやってくる。そこにきよちゃんと言う、きれいな娘が一人いて、いつも三味線の稽古をポツンポツンとしていた。踊りも上手で、お縁日に出来る舞台でいつも男踊りをおどった。他にはよく中国の見世物がやって来て人形の首や手をきったりする

恐い見世物だった。年毎に世田谷村の縁日も人が多くなり、家の数も増えてきた。家の高窓から見えていた富士山も何時しか見えなくなった。「世田谷村の発展は田畑山林たちまちに店、住宅に早代わり、昔の面影更になし」と町になったお祝いに旗を振って、皆で歌って歩いた。日曜日には太子堂にある佛教会に行って、お坊さんのお話と甘茶をご馳走になった。「昔も昔、三千年、花咲き匂う春八日、響き渡った一声は天にも地にも我一人、

立派な国に生まれいで、富も位もありながら一人お城を抜け出でて、山にこもりし十二年」とお釈迦様の歌を歌った。帰りに桜吹雪になると、母から縫い針を借りて、梶の敏子さんと桜の花びらを針で通して首飾りを作った。丁度外人さんが子供を連れて通ったので、差上げると、大喜びして帰った。数年経ってきよちゃんが、喜劇俳優のヱノケンさんと結婚したと言ううわさが流れた。戦後、きよちゃんに手紙を出して、雪谷のお宅を訪ねた。大きな家で、きよちゃんは愛想良く迎えてくれた。紺がすりの単衣に朱の帯をきちんと結び、大家の奥様のようであった。やがて主人に会わすと二階に連れて行かれ、鬼のような大きな顔のヱノケンさんに紹介された。一人息子の坊ちゃんも来て丁寧に挨拶されたのでびっくりした。きよちゃんが言うのに、毎日好きで、紅生姜ばかり食べるので、学校の先生からお前の母親は継母じゃないのかと言われたそうだ。お昼で、お鮨をご馳走になり、難しい芸能界のお話を聞かされたのだった。

2006年6月 6日 (火)

世田谷の玉電と人力車

ちえこの弟「T」

私達の家族が東京渋谷の隠田から世田谷村の太子堂に住み着くようになったのは、大正の初め、1915年頃ですが玉電は既に渋谷から二子玉川まで開通していて、三軒茶屋

界隈は今日同様、世田谷で一番賑やかな盛り場でした。現在の下高井戸線の乗り場付近に、当時は人力車夫の溜まり場があって朝早くから数台の人力車が客待ちをしていました。当時はまだ読み書きの出来ない人もいたようで、中年の車夫達が頭の禿げ上がった親方を真ん中に、車座で取り囲み、親方が読み上げる新聞記事を熱心に聴いている光景が思い出されます。この親方は何時も新聞を読むとき、頭を小刻みに振る癖がありましたので、私達は首振り車屋と呼んでいました。当時、上町方面に向かう大山街道沿いにも

一人で車屋を開業している人がいました、今で言えば、個人タクシーですね。その親父さんは60位の大男でしたが、走る事が滅法遅いので、近所ではヨボヨボ車と言って馬鹿にしていました。しかし、私にとっては、彼は命の恩人なのでした。私は数え年7歳の時、ジフテリアと言う恐ろしい伝染病に罹り、九死に一生を得た事がありました。彼の車は、一刻を争う状態の私と父親を乗せて、暗闇の街道を病院迄突っ走り、救急車の役割を果たしてくれたのです。玉電の開通は、当時の世田谷村や駒沢村の発展には、大きな役割を果たしたのですが、上記のような車屋家業には深刻な打撃をあたえました。数年を経たずして界隈から消えてゆきました。玉電は元々多摩川の砂利を市内に運ぶために敷設されたので、渋谷、三軒茶屋間は複線でしたが、三軒茶屋から先は単線でした。当時の二子玉川には広い砂利の集積場があり、トロッコによる運搬施設が出来ており、一日に数回貨物専用の電車が砂利を満載して街中を走っていました。この頃の道路は市内も郊外も殆ど砂利道で、砂利の需要は大きかったのです。当時の乗客は少ないため、三軒茶屋で折り返すので、車掌がいちいち降りて、ポールの向きを変えるのでした。渋谷から乗る乗客は殆ど知り合いか、知り合いでなくても、何処そこの誰と言うことが判ったといわれていました。

2006年6月 5日 (月)

明治の香川県丸亀の小学生

当時、丸亀には東西に分けて二つの小学校が新築された。予ら数十名の男女生徒は、雨の中を雨傘をさして、れいの文庫を肩に背負い、列を作って新校舎に移ったときは夕方であった。元来予は幼年時代から、祖父に全愛を以って育てられたのと、俗に言う総領の甚六らしい所があったので、幼時から心優しい方で、友達の如きは男の子よりは、むしろ女の方が多かったのであった。或る時、予は学校えの途中で、悪童連中から散々苛められたのに怯え、白子と言う汐入川の部落の子供と遊び過ごし、学校が終わった時を見計らって、持っている草紙を川水で濡らし、さも草紙で勉強をして来た様につくろい、平気な顔をして帰った。然るに、そのつくろいは、友達が密告していたので、父親の憤懣は大変なものであった。予が帰宅するやいなや、飛び付くように予を引き据え、大きな手を以って予の首筋をうんと言うほど叩き、窘めたのである。然るに、その夜から予の全身は、恐ろしく腫れあがり猛烈に発熱したのである。予の幼児に似合わぬ、念入りの欺瞞に驚いた父の憤懣は無理の無いことではあったが、そのたしなめ方が効きすぎたので、両親の驚きは一方ではなく、医者だ、薬だと散々手を尽くした様であった。然し、翌くる日も、翌くる日も腫れの引く様子が無く、ついには之がために死んで行くのではないかと迄憂慮される様になった。そこで父は人の薦めによって丸亀から一里あまり、柊岡村にいる名医に診て貰うことになり、親戚にあたる啓次郎と言う男が予を背負い、毎日通った。一週間でやっと腫れが引き,全快を見るにいたった。その時の心配は80歳をすぐる父から、今なお語り草となるほど、大きな出来事であった。予は幼年から、絵を描く事が得意であった。

そして如何に気難しい際でも、絵の具か色鉛筆をもたしておけば極めておとなしくなるので、父はそれらの物を常に机の引き出しに、秘めておったようである。学校では絵にかぎって、先輩や上級生のそれをしのぎ、春、秋の展覧会には何時も一等賞の札が掛り、教員室にも額に入れて飾られていた。中でも、予が土器川から見た讃岐富士のスケッチは天稟の出来であると言うので、全校生徒に回覧せしめ、受け持ちの先生が、態々賞品を持って父を訪ねて来た事もあったのである。

meiji

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