友愛会の設立 19世紀の少年、あー頼もしい
初代 郁太郎の友達は、、、
どうしたわけか、予の町内には、同年齢の学友はいなかった。汐入川を隔てて向こうに、後に親戚になる梶完治がいた。梶は幼年時から秀才で、眉目秀麗、8歳で、すでに四書を暗誦していた。土居というところには三野熊雄がいた、丸亀では有数の富豪の子息で、その広大な家は、連隊長でなければ借り得ないと言う程、立派であった。予の裏の鉄砲町には、父親が陸軍大尉の永野義元、先生の息子の渡辺豊、傘商の父を持った吉田幸太郎、そして中でも一番親しかったのは萱町の長谷川等と円光寺町の浜田伊三雄で、長谷川は丸亀地方裁判所で鬼検事と恐れられていた長谷川和愛と言う人の養子で、生地が高知県のせいか、其の言葉ははっきりとして、又、姿態もどこかきびきびとして、見るからに剛健のようであった。予はしばしば彼の宅を訪ねた。彼もまた予の宅にきた。そして、
継母の厳格すぎる不平を、予の母に訴えるので、母もまた、心から同情を寄せ、我が子同様、親切に待遇した為、終いには、自家で涙するような事があったら、慈母に訴えるように駆けつけるのが常であった。彼の部屋は玄関を入った右側の一室で、そこには教科書の他に、色々の雑誌があった。予は彼を訪ねる度に、小国民と言う雑誌を読みふけるのが常であった。予が将来、新聞記者になり、文学的興味を持つ様になったのは、この時の小国民耽読が与った様な気がする。惜しい事に、彼は高等小学校在学中に肺病に罹り、墳墓に眠ってしまった。今一人の親友、浜田は多度津の生まれで、父親は高極藩
「丸亀藩の分家」の目明しであったが、事志と違い、丸亀に移り、一家で籤細工をしていた。当時予は友人達より幾らかマセていたとみえ、皆から比較的に敬重され、よい意味での餓鬼大将であった。成績が上々でもなく、家に金が有ると言うのではないが、多くの学友は常に予に集まり、予の指示に盲従するのだった。そうした事から、予を会長として友愛会と言う組織が作られたのである。メンバーには前記の友人達と遠くから十数名が参加し、毎週日曜日、会員の宅を順番に廻って演説をするのである。演説と言っても、座敷や応接室を使うのではなく、玄関や庭先に机を持ち出して、道を歩く人々に向かって、いはゆる大道演説をするのである。今考えると、随分大胆な仕組みであったと思う。会長である予は藤田と言う古本屋から買ってきた演説集から一説、一説を予め暗記し、手をふり
胸をそらして演説をする。予が得意にしていたのは「案山子の説」と「雄弁論」で、これを演説すると、いつも沸くが如く喝采を博したのである。或る夕暮れ、当番である永野の家で会が開かれた、玄関にランプを吊るし、机とみかん箱を持ち出して、会員が代わる代わる演説を始めた。そうした事は丸亀ではなかった事であったので、大人も子供も非常に珍しがり、見る見るうちに門前市をなす盛況であった。そして下手な演説をすると、時々半畳や野次が飛び出し、小さい講師が顔を赤らめ、頭を掻いて引き下がると、観客に笑殺される事もあった。予は会長であるというので、最後に引き出された、得意である雄弁論を一席やると、突如、何処からともなく大音声で「19世紀の少年 あーー頼もしい」と多少の節をつけた声が聞こえると、暗闇の中の聴衆から急霰のような拍手が起こった。この声がどれだけ我々会員を力ずけてくれたものか。一同は気色満面、アー愉快だ、面白いと、会は益々発展したのである。

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