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2006年7月29日 (土)

四国 丸亀に出世大将帰る

初代 郁太郎

予を最も愛撫していてくれた祖父が、突然、老衰の為に死んだ。そして、東京から、予の伯父で、予の母の長兄である郁夫夫妻が一子ミツを連れて帰って来た。この伯父は、予の一家にとっては、出世大将で、当時、陸軍の主計大尉であった。「東京の伯父さんが帰って来た」と言うので、一家親族は、毎日の如くに予の家に集まり、伯父もまた、国を去って、初めての帰省であるから、連日大判振舞いをして、隣り、近所を散々羨ましめたものであった。当時、伯父は、ふとした話の序でに、予の母に向かい、「子供を何時までも、田舎で育てる事は考え物だ。小学校さえ卒業したら、3人共、皆、東京え寄越したらどうだ。」これには、予の両親は勿論、予等兄弟としても、闇夜に光を見たような、明るさを感じ、もう立派な人間にでもなったような気持ちを持ったのである。かれこれするうちに、予はかなり良い成績で高等小学校を卒業し、続いて、亀陽学舎に通学して、英漢数の3科目を一生懸命に勉強した。其の頃、日清戦役が始まった。その余波を受けて、父の商売はあがったりになった。これには、さすがの父も弱ってしまい、終には、軍夫の募集に応じて、出征せんとまで、心を決めたのであった。しかし、色々と運動の末、やっと丸亀連隊に臨時に出来た衛戍病院に、荷受人として採用される事になった。今迄仕事場で終日、鑢や刃物をいじっていた父は、其の時から、黒い洋服に軍帽をかぶって毎日連隊の営門を出入りする事になったのである。この戦争は約、2年続いて我が軍の大勝利となり、出征の兵士は威風堂々と凱旋してきたが、戦争の為に、傷つき、病を得た者は、容易に快癒することは無かった。そして、戦争が終わった後になって、新患者の数が増えてきた。そのため、父の仕事は日一日と忙しくなり、幾日も幾日も当直を続けて、家に帰る日が少なくなった。反面、お蔭で予の学資も満足に賄いうるようになり、母と予は、何時も喜んでいたのであった。何時の世も同じであるが、戦争が起こると、若い者の志望がガラリと変わり、軍人に集中される。其の時もそうであって、猫も杓子も、仕官学校、海軍兵学校と、それを志望する者が増えて来たのであった。若い小学校の先生が、陸士の試験に通った、だれ某は幼年学校に入ったと、それぞれの噂が、町の声として、人々の心を沸き立たせていたのであった。其の内に、予と共に、妹尾先生の所に漢学を習いにいっていた吉田耕一が陸士の試験にパスした、次いで予の先生であった新奥新太郎、喜多卯吉、隣家の橋野万蔵、も陸士に受かった。この頃から予の弟の研二は海軍兵学校えの志望が兆しかかったのであった。環境は時勢の波にあほられて、陸海軍えと若い者を引きつけて行くのであったが、予は元来、身長が五尺をちょっと出たばかりであったから、このあほりから取り除かれたことは当然である。それにしても、彼等の立身を白眼視していることには我慢できない。自分も又、それに相応する立身をしたいと念願をしていたが、何をやろうか。何処え向かうべきか。その立志の確定に毎日を送っていたのであった。

2006年7月28日 (金)

96才 ちえこの水彩画

ちえこの水彩画は独学で95歳まで40年続いている、高齢まで元気でいられるのは、ひとえに、絵を描く執念であろうか。Photo_base30003_1

Photo_base30001 Photo_base30004 Photo_base30006 Photo_base30005

2006年7月20日 (木)

世田谷の関東大震災「3」

Photo_base3 朝鮮人が攻めて来た  二代 ちえこ

病院の庭に、何時までいてもしょうがない、皆、お腹も空いてきたし、そろそろ家に帰ろうかと、話がまとまり、暗い夜道を家に向かった。帰って、早速ご飯を炊き、大きな鉄鍋でジャガイモの味噌汁を作った時に、又、逃げろ逃げろの声と共に半鐘が鳴り出した。今度は、近くの連隊に逃げる事に決め、お釜や、味噌汁の鉄鍋を持って逃げた。連隊の庭に着いて、やっと、落ち着いてご飯を食べる事が出来た。味噌汁が美味しくて、お腹に沁みた。連隊の兵隊達はトラックに乗り、どんどん出て行った。暫くして、近くにいた男が、ここには火薬庫がある、何時敵が来て、火をつけ、爆発するか判らないから危険だと言う。やっと恐怖の夜が過ぎて、東が白み出したので、家に帰ることにした。皆の顔は鍋や釜の炭で真っ黒だった。家に帰ると、瓦の落ちた方を浅草の連中にひき渡し、私達は離れの3室に住んだ。明くる日から、朝鮮人狩りが始まったが、東北の人など、言葉のはっきりしない人など、疑いを懸けられて、大変だったらしい。三軒茶屋角の斉藤呉服店の前には、銃で打たれた人が転がっていた。後で聞いた話によると、逃げろと言う声を聞いても、何処にも逃げず、家に隠れていた人も近所にいたとの事。私たちも、随分要らない心配をしたものだと、家族で話した。総てが流言蜚語で、一人が言い出したことに、多くの人が従ってしまう。朝鮮人が攻めても来ないのに、玉川で砂利取りをして働かされていた人が、日本人とけんかをして、あいつが井戸に毒を入れたとか、何をしたとか、あること、無い事を噂して、噂が噂を呼んだに違いない。今の様にラジオやテレビがあれば、こんな事にはならなかったと思う。家に逃げてきたお寿司屋のおじさんは本当の江戸っ子で、歯切れの良い江戸弁をしゃべった。

毎日浅草の焼け跡まで、片ずけに歩いて通った。帰りには、焼けた硬貨の塊りや、井戸に放り込んで助けた娘の着物などを、担いで運んで来るのだった。

2006年7月18日 (火)

世田谷の関東大震災「2」

Photo_base30007_1 父 無事に帰る : 母はジャガイモを買う : ちえこ

あくる日、午後の3時ごろ、父は自動車に乗って帰って来た。聞けば、京橋の新聞社、社屋で机の下に潜っていたら、天井が落ち、そこを何とかすり抜けて外に飛び出したそうだ。社員が大八車に、社の大事なものを積み、神田の駅まで来たら、中に大勢の人が逃げ込んでいた。辺りはみんな火に包まれていたので、そんな所にいると死んでしまうぞ、と怒鳴り、みんなを外に出したそうだ。母は地震のあと、直ぐに近所の八百屋に行って、ジャガイモを山のように買い込み、風呂場のたたきに積み上げた。この事で、後でどんなに助かったか分らない。なにしろ、食べ盛りの子供7人の9人家族。母の気転で三、四日とはいえ、お腹の足しになったのであった。

暫くして、浅草、吾妻橋の袂で寿司屋をしていた父の従兄弟が一家の他に、支店の家族共々、焼け出された25人が世田谷の家を目指して逃げてきた。うちだけでも大変なのに、母は本当に大変だったと思う。ガスは無いので、外にかまどを作ってお米を炊く用意をしていると、半鐘が打ち鳴らされて、消防団の人が逃げろ逃げろと怒鳴っている。外に出て街道を見ると、多摩川の方から荷物を担いだ人が大勢逃げて来るのが見えた。何でも、玉川で砂利取りしている朝鮮人が襲ってくると言う。さー大変だ、逃げねばならぬ。母は赤ん坊の妹を背におぶり、父を先頭に、吾妻橋の寿司屋25人もぞろぞろと付いていった。私は、とっさに1枚の毛布を持って後を追った。ちゃんとした道を通れば良いのに、父は目黒川を目指して、たんぼや畑のあぜ道を通ったので、肥やしだめに落ちたり、酷い事になった。顔見知りの人とも会うのだが、敵は見えず、何処に逃げたらよいのか、判らない。それでも歩いている内に、代沢小学校に逃げ込んだ。いり口の下駄箱の裏に隠れていた。一緒に逃げてきたよその旦那さんは、手に鉄瓶をぶら下げて、外を見張っていた。自分がなにを持っているのか、知っているのかしらと思った。やがて余震に脅かされながらも夜が来て、ひとまず、家に帰ろうと、外に出た。真っ暗な道を衛戍病院まで歩いた。病院の中には沢山の人が逃げていた。一息ついた皆はそこで腰を下ろした。私の持ってきた毛布を地べたに引いて、赤ん坊たちを寝かせた。本当に毛布一枚が役に立った。

2006年7月17日 (月)

朝鮮牛は何処に消えた?

ちえこの弟 「T]   私の子供の頃、東京の街中で見掛ける牛は、総て朝鮮牛でした。薄い黄土色をした朝鮮牛はホルスタインなどと比べると、はるかに小柄で、痩せており、角も申し訳に付けたように、貧弱でした。其の頃「大正初期」三軒茶屋から上町方面に向かう、現在の世田谷通りを私達は大山街道とよんでいました。道幅は現在の半分もありませんでしたが、若林当たりまでは両側に、民家や商店が軒を連ねており、三軒茶屋交差点の近くには島田市場と言う青物市場があって、朝早くから野菜を積んだ荷車が犇いていました。しかし、一日の内で大山街道が一番混雑するのは、何と言っても、朝夕の牛車の行列が通る時でした。牛車の行列は上町方面から現れて三軒茶屋を通り渋谷方面に向かい、帰りは逆のコースを取っていました。車の数は数十台に及び、車を引いている牛は総て朝鮮牛でした。世田谷村や駒沢村は勿論ですが、当時、東京の市内では、殆どの家の便所は汲み取りでした。牛車の行列は、毎日、市内の家庭の屎尿を汲み取って運搬していたのです。又、行きの車には空の肥樽の他に野菜を積んで、市内の家庭に売捌いていたようです。この頃、家の側にコー坊と言う2歳上の子供がいました。彼は札付きのワルで、餓鬼大将の見本でした。或る日、コー坊が、朝鮮牛を使って、今で言うロデオ遊びをしようと言い出しました。場所は藤田の原と呼んでいた、教学院の南側の原っぱでしようと言いました。私は冗談かと思っていたのですが、暫くして、コー坊は本当に牛を引っ張ってきたのです。子供たちが原っぱに集まると、こー坊は、大見得を切り、いきなり牛の背中に飛びつきましたが、最初は失敗しました。二回目も駄目、三回目でようやく背中にまたがりました。Photobase30021朝鮮牛は辛抱強く大人しい牛ですが、人間を背中に乗せたことが無い牛なので、いきなり後ろ足で土を蹴り上げので、あっという間にコー坊は叢に振り落とされてしまいました。コー坊は尾骶骨を強かに打ったとみえ、たおれたまま唸っていました。子供たちの中には、コー坊に続いて挑戦する予定の者もいたのですが、流石に、コー坊がやられたのを見ては、皆、尻込みしてしまいました。現在、東京では朝鮮牛を見ることは有りません。トラックの普及によって、牛車や馬車の必要が無くなり、あれほど沢山いた朝鮮牛は何処に消えたのでしょうか。朝鮮牛を殺して食べたと言う話は聞いた事が無いのですが。

  Photobase_30003 Photobase_30004                   最近中野で糞尿を煮て悪臭を撒き散らす男が逮捕されましたが、昔の朝夕の汲み取り車の行列の臭いはどの程度で有ったのかと、思いを廻らしました。

2006年7月13日 (木)

大正12年の関東大震災

二代 ちえこが驚いた大地震「1」

1923年に私が味わった、大地震は、今でも、はっきりと、覚えている。平素から地震嫌いの私は、9月1日始業式から帰って、母の作るお昼の、干物の鯵が焼けるのを待ちながら、兄や弟と学校の話をしていた。すると、突然の地震で、皆、庭に飛び降りた。私は、白地に紺で大きな花模様の入った浴衣を着ていた。庭の築山に植えられた大きな躑躅の枝に袖が引っ掛かり、片袖がとれたまま地の上を這い回った。母は妹を抱いて、縁側の柱に掴まって立っていた。ちょっと揺れが収まったが、直ぐにゆり戻しが来て、家の瓦が一間ぐらい飛び上がってガシャンガシャンと落ちてきた。母も縁側を飛び降りて、裏の広い空き地に逃げた。大きな桜の木が何本もあり、見上げるような金木犀の木もあった。家の門の前にある広い原っぱに近所の人も、集まって来た。西の方角の空に大きな入道雲がムクムクと上がりだした。普段は富士山が良く見えていたのに、白い雲に覆われて、皆は富士山が爆発したのではないかと言い合った。絶え間なく襲って来る地震に、草の葉を掴んでトトト、、、とお経をあげている人もいた。病人や老人は戸板に乗せて、空き地に運んだ。皆、不安の群集心理で人の集まっている所に居たいのだと思った。様子を見て、お腹が空いたので、食べ物を取りに家に帰ったが折角、母が沢山の鯵を焼いたのに、お膳の上には何も無かった。全部、近所の猫に食べられてしまった。夜になっても揺れが収まらないので、桜の木と木の間に蚊帳を吊って、ゴザを引き、寝る事にした。夜になっても、引っ切り無しに町の消防団の人が来て、何時にもっと大きな地震が来るとか、山本内閣が総辞職したとか、色々ふれて廻った。隣の梶のおばさんは、日比谷公園の市電で地震にあい、泣きながら家まで駆けてきたそうだ。夜になって東京中空が真っ赤になり、火が燃え出した様だった。揺れる大地で眠れぬ一夜を明かしたあくる日は、世田谷の上空まで黒い雲が立ち込め、其の中を真っ黒な顔をした人がどんどん逃げてきた。東京はどうなったと聞くと、皆駄目だと言うので、初めて、父は如何しているだろうと心配になった。

2006年7月10日 (月)

ちえこの『野に咲く花の押し花」

        ちえこの水彩画と布絵Photobase_30001 Photobase_30008 Photobase_30009        名も無い道端に咲く野草、誰にも、見向きもされない、切られても、折られても、むしられても、おこりもせず、直ぐに、あとから、あとから、葉が出て、花が咲く。こんな花が私は大好きだ。悪い事だとは思うが、散歩の途中、何時も、花をむしってきて、ティッシュに挟み電話帳に挟み込み、忘れた頃に取り出すと、綺麗に乾いて、面白い形をしている。これを色紙に貼って、絵を描くときの参考にすると、これがすこぶる面白い。小さな花でも、紙の余白、絵の強弱、バランス、奥行き、等々であらゆる事を学ぶ事が出来る。今日は、朝顔を押した。忘れた頃、どんなになっているか、楽しみだ。

2006年7月 3日 (月)

銀細工屋の郁さんであってはならぬ

郵便局に採用された友人

この当時予の家にしばしば立ち寄っていた人の中に、小松と言う人がいた。この人は予よりも数歳の年嵩であったが、商売は屑やで、毎日朝早くから天秤棒を担いで街中を歩くのであった。しかし、この男は、非常に感心な人で、何時も懐に漢籍をいれ、商売の暇には、必ずそれを読んでいたので、評判となり、予の両親は大いに関心を抱き、常に予等兄弟に対し「あんな風に勉強しなければならぬ。あの男は将来、立派に出世するだろう」と引き合いに出して激励せられたので、予は彼に近ずき、仲良しになった。果たして、彼は郵便局の吏員採用試験にパスし、この間まで天秤棒を担いだ屑やさんが、一躍、郵便局のお役人になったので、又しても、町中の評判になったのである。小松さんは多度津の郵便局、大阪の郵便局、に転勤し、判任官に出世された。予が後年、東京の苦学に耐えることが出来たのも、小松さんのお蔭かも知れない。予の父は銀細工を作っていた。銀細工と言うのは、東京で言う飾り職で、銀の板、真鍮の板金を仕入れて来て、櫛、笄、簪などを作るのである。だから家の表に面した所に仕事場があって、そこに父は終日、座ったまま、それらの物を作るのであった。学校から帰ると、忙しい時は、何時も炭磨ぎをやらされた。父があらかた作り上げた簪や笄を固い炭で、表面が鏡の様に滑らかになるまで、こするのである。冬の寒い日などは冷たい水に木炭を漬けて一生懸命にこするので、指や手が、赤く腫れあがるのであった。父の仕事の注文先は、通り町の綱屋と言う装飾品店で、そこには、小柄で人の良い長さんと言う老人が良く来て、父と親戚付き合いをしていた。長さんは、小箱を風呂敷で首に引っ掛け、かいがいしい脚絆がけで、在郷を巡回し、あちらこちらから、色々の注文を引き受けてくるのだった。我が家は片側町であるため極めて、人通りも少なく、それ故、何時かは表通りの商家の多い所に行きたいと、両親は思っていた。其の頃、予も、心密かに、父の後を継いで、「銀細工屋の郁さん」であってはならぬ。何とかして、もっと立派な人間になって、家名を興さなければと、それとなく心を引き締めていたのであつた。

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