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2006年8月30日 (水)

18歳で家を旅立つ 観音寺え

今から思えば、戸川氏夫妻の暖かい心ずかいが与っての力があったものと思う。時に予は18才であった。生まれて初めて、父母の膝元を離れて、観音寺に旅立つのである。僅か行程7里弱の処であるが、それでも、当時の予にとっては、千里異境に行くの感がしたのであった。母は、この初旅の予を送るために、新しい着物を整え、布団を新調し、何日もかかって、一つ一つ中型の柳行李に詰め込むのであった。時は、桜には早い3月の中旬であった。予は、いよいよ懐かしい故郷を後に、観音寺えの初旅に出るのである。両親や友人知己に送られる予は、一台の人力車に乗り込み、両股で柳行李を挟み「それでは行って参ります」と西に向かって走り出した。車は静々と丸亀から金蔵寺え、金蔵寺から鳥坂と進む。車夫はかねてから父と心安い者、殊に父から懇々倅の事を頼まれている関係で、車を引きながら車上の予に向かって、何くれと無く、面白い話を始めるのであった。其の内に、金蔵寺も過ぎ、鳥坂の中腹え差しかかった。坂はさして、峻険と言う程ではないが、老車夫にとっては、かなりに苦難であった。丁度良く坂の中途に一軒の茶店がある。ここは、この道を往復する者の休み処で、予も車夫の薦めで、ここで一休みする事になり、ホッと息をはいたのである。一休み後の車棒は軽かった。それよりだらだら坂を上高瀬、下高瀬、本山、と色々な村を突っ切って、午後4時に目指す観音寺町に辿り着いたのである。予が着いた観音寺郵便局というのは三等局で、それを経営しているのは、東と言う上市唯一の醸造家、藤田東三郎と言う人であった。郵便局は、其の酒屋の西側にある、小奇麗な二階建てで、内部は一つ所帯であるが、表面は、ハッキリと二つに区画されていたのである。酒屋の方は、東三郎翁が引き受け、郵便局のほうは長男のがいちさんが引き受け、局長でもあった。がいちさんは電信技術を終了した資格者で、聡明な好男子であった。何時も美しく髪を梳り、キチンとした着物に袴をはいていた。予が東三郎翁に会い、がいちさんに迎えられると、彼は非常に歓迎し、予を先導して、局の先輩である大西さん、戸祭さんに紹介された、其の日より大西さんが主となって、親切に予の世話をしてくれたのであった。

2006年8月 4日 (金)

8月スケジュール

8月は23日までお休みします

東京市外世田谷町太子堂で羊を生んだ

ちえこは三代目寒がり羊をみごもった。

ちえこは結婚し、6月に子供が出来るのだが、、丁度、信州上松にいた夫の姉一家にも子供が生まれるので、姑がそちらに手伝いに行き、ちえこは近所にいる母にお願いをした。ちえこは始めてのお産であるし、本当は、実家に帰ってお産をするのが普通なのだろうが、子供も多いし、新しく借りた家で羊を出産した。父母と夫は一緒に喜んでいた。一週間して、姑から電報が来て「今日帰る」といって来た。ちえこは本当にびっくりした。夜遅く帰って来た姑は、「我が家の大切な初孫が出来るのに、私がいなくてどうするの」と言うことらしかった。折角電報を打ったのに夫は迎えにも来なかったと、怒る事怒る事、ちえこは寒がり羊を抱いて、実家に逃げ出すのであった。そんなこんなのごたごたで、乳の出が悪く、羊は段々と痩せていき、皆から、ガンジーのあだ名が付いてしまった。それからはミルクで育てる事にした。姑とは、どうしてもうまくいかず、別居するより仕方がないと、ちえこは世田谷一番町に引越し、姑は太子堂近くの一室のいえを借り、S教の布教に励んだ。経済状態が良くなった訳でもないのに、二所帯に分かれたため、家計は益々逼迫、羊のミルクも買えない。家賃は14円50銭だけど、姑の家賃も払わなければならず、残りで30銭の鷲印のコンデンスミルクが買えたら、天にも昇る気持ちになった。お金が無い時は、5銭のミルクをお湯で薄く延ばして飲ますので、直ぐにピーピー言い出すのだった。又、月末になって、ガス代、電気代、などを集金にきたら、それを断るのが辛くて近所の人にみつかるのも嫌で、羊を負ぶって、実家に逃げ出すのが常であった。昭和6年は世界恐慌の波を受けて、大不景気、大学を出ても碌な就職口は無く、又、満州事変によって戦争の時代に突入する時、寒がり羊は希望の無い将来に向けて薄いコンデンスミルクで幸い少ない人生をたどり始めたのである。

2006年8月 3日 (木)

多度津の一等郵便電信局へ

或る日、友人の渡辺が訪ねてきた。彼は予と同齢であるが、予よりも一年先に小学校を卒業し、卒業後、人の薦めに応じ、多度津の郵便電信局「当時、四国唯一の一等局」で電信の技術を習得しつつあった。そして、其の習得が終わると、直ぐに電信技士として琴平郵便局へ赴任する事になっていたのである。彼は予の、いまだ志が決まっていない事を咎め、予の父に自分と同様、電信の方えすすんだらと、薦めたのであった。そして、6ヶ月の技術練習中にも手当てが出る事、それが終わると、ただちに5,6円の月給がつくと言う事等を得意らしく話すので、父も、予も、少しばかり心を動かされたのであった。今からみれば、5,6円の月給は物の数ではないが、当時は巡査が8円、小学校の先生は6,7円、と言う時代に16歳の少年が、それだけの給料を収入すると言う事は、相当な出世であった。そこで、家族協議の末、渡辺の勧告に応じて練習生志願の手続きをとる事にした。当時、電気通信技術伝習所の主任は庄野さんと言う書記で、其の上役の電信課長は戸川寛三さんという方で、父と母はその奥さんを良く知っていた。両親は「ああ、あのお霜さんの亭主か、それなら一つお願いして見よう」父は予を伴って多度津の私邸に戸川さんを訪ね、懇々と将来を頼んだのであった。戸川さんは坊主頭で、風采は上がらぬが、温厚篤実な方で、快くこちらの願いを入れてくれたのであった。が、それよりもひどく、予等に好感を与えたのは夫人であった。彼女は初対面の時から、予を実弟の様に取り扱い、何処までも面倒をみるから、安心せよと言われたので、これなら、将来、有望であるぞと言う自信ができたのであった。明治29年4月23日、無事に伝習生の試験をパスし、丸亀の自宅から多度津の間、約一里を毎日、柳製の弁当を抱え、徒歩で通学した。伝習所は多度津の入り口にあり、多門院と言うお寺の一隅であった。朝決まった時刻に丸亀から多度津えの通勤者が踵を接してぞろぞろ歩くのであった。それは皆、郵便局の役人であった。予は伝習生と言う辞令を拝命した。最初トンツートンツーと電信符号「モールス印字イロハ」を習い、それを暗記すると、今度はモールス印字機をあてがわれ、其のキーを盛んに叩いて指先を馴らし、それが終わると、本物の機械にかかり、イロハと細い紙に、自分の叩いた字を打ち出して調整するのである。伝習は極めて簡単であるが、それでも、生まれて初めて手にかけるものだけに、相当の苦労はあった。予の家は丸亀の東端である、そこから丸亀の西端、船頭町え出るまでは相当の路のりがある、従って予は、毎朝人一倍早起きして、2度分の弁当を柳に詰め、家を飛び出し、町外れで同僚の森田と会い、塩屋、中津、鴨、と一筋道を往復した。間に中津川と言う河がながれている。その橋際に一軒の茶店があった。我々通勤者にとって、この茶店こそ、砂漠におけるオアシスであった。一行は往復にきっと、ここに腰を下ろし、茶を一腹し駄菓子を摘み食らうのが常であった。今もって予が忘れられないのが、或る日、新しいサツマイモを山盛りにふかして、予らを待っていてくれたことである。このときの藷の美味は到底忘れえぬものである。この様にして、早くも六ヶ月の伝習期間も過ぎ、予は同僚の森田、田中と共に

明治29年10月23日修業証書を授けられた。証書は東京郵便電信学校長 湯川寛士の名により発令されている。次いで、3人の勤務先も決まった。森田が伊予の内子郵便局、田中が讃岐の志度、そして、予は最も近い観音寺局に行く事になった。

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