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2006年10月26日 (木)

東京を目指す郁太郎の弟

海軍兵学校を目指して 「地獄え行く」

伯父の一行が東京え帰って間もなく、次弟が東京に行くと言い出した。当時弟は中学4年生であった。後一年すれば卒業出来るのであったが、伯父の話を聞いては矢も盾もたまらず、是非、東京の海城中学え転校したい、海城中学校は海軍兵学校を志望する者にとって、最も都合のよい学校であると言い出した。伯父は子供を寄越せと言い、本人は自分の将来のために行きたいと言うのであるから話はすらすらと纏まり、明治32年の春上京する事になった。上京してからの伯父とその家族との生活に、明るく楽しいであろう東京の生活をイメージしていた。丸亀中学からの転校手続きも無事に済み、東京に出発した。当時伯父は東京の雑司が谷に1000坪の邸宅を構え、家族は伯父の妻よしと長女ミツ、女中のテルの4人暮らしであった。しかし喜び勇んで東京に着いた弟から来る手紙には、何時も伯母の虐待を知らせてきた。ヤレ食い物が粗末であるとか、毎日、がみがみと叱り飛ばされるとか、色々な労役に、骨が折れるとか。連日の精神的な疲れで、受験勉強も進まず、少し痩せてきたとか。一便、又一便、我々の両親や兄弟を顰蹙させる物ばかりであった。そこで、両親も俄かに、思い切って予を上京さすことに腹を決めたのである。それは、一つには弟の労苦を助ける意味と、今一つは、兄弟二人でいれば如何に鬼の様な伯母も、少しは苛責虐待の手を緩めるであろうと言う親心からであった。然し、予は来年が徴兵適齢であった。その検査を済まさぬ以上は、速やかに上京する事は出来ない。そこで弟には、「何とか辛抱せよ」との一点張りの便りをやって、何とか明治33年を迎えた。徴兵検査はその年の4月であった。しかし上京を急ぐ予としては、それまで待つ事さえもどかしいのである。父は勤めていた連隊司令部に運動、何とか、高松で2月に行われる検査に組入れて貰う事に成功した。2月の或る日、高松、成願寺の検査場で検査を受けた。5尺6分の予は、当然不合格、国民兵としてはオミットされた。予は喜び勇んで帰り、ただちに上京の準備に取り掛かった。逓信省えの辞職手続き、旅行の支度。かくて予は33年の4月18日の日付で依願免本官の辞令を貰い、出発の前日、両親は平素心安くしていた人々を招いて、今で言う壮行会を開いてくれたのであった。

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2006年10月23日 (月)

或る日、お米も無くなった

ちえこ 21歳で二人目を! 

或る日、とうとう、お米が無くなった。浩も電車賃が無くて、歩いて会社に行ったようだ。それでも私は母にお金の無心はしなかったが、母が気をつかってくれて、黙って5円のお札を掴ましてくれるのだった。その内、浩の叔母の夫である今井半次郎が心配をして、何とか、浩に良い職をと、横浜の専修商業学校に4月から勤めることになった。校長先生が今井の叔父の友人だった。家は本牧に丁度良い借家があり、三渓園も近く、山の下ではあるが、間取りも姑との同居生活に丁度良く、喜び勇んで赴任した。思い出多い三軒茶屋を離れるのは心細かったが、、、、月給も70円と聞き、やれやれこれで一息つけると安心した。

新しい家の家賃は20円だった。当時お米一斗が2円20銭だったので、毎月25円ぐらい貯金する事が出来た。暫くして、やっと25円で洋服ダンスを買う事が出来た。昭和8年の1月長女が生まれた。2番目のお産は軽いと聞いていたので、油断もあったけれど、姑は何一つ協力してくれない。長男は母が連れて行っているし、丁度お昼ごろから痛み出し、たまらずお産婆さんを呼んだ。凄いデブのお産婆さんは、夜中に私のお腹の上で寝てしまう始末。朝になってデブさんは大慌て、お湯で温めたりしている内に、やっと10時過ぎに生まれた。こんな難儀なお産は滅多に無いのではないかと思う。何しろ姑は体が弱い弱いと言って、嫁がお産で寝ていても、食事を作るなどとんでもないと考えるらしく、長男の時もゴタゴタしたけれど、赤ん坊のおしめ一枚洗ってくれず、結局、家政婦を一週間頼んだ。浩も姑に似て雨戸の一枚も開けてくれない人だったので、総て私がやるしかなかった。それでも、二人の子供に恵まれ、きちんきちんと入って来る月給に、初めて、幸せをかみ締めたのであった。浩の学校の同僚先生達は本当に遊び人が多く、年中飲んで遅く帰り、朝、目が覚めてみると、同じ蚊帳の中に、見知らぬ男が寝ていて驚く事もしばしばだった。浩は若くてハンサムな先生と女学生に言われて、そのポケットにはよくラブレターが入っていた。然し、私は二人の子供と姑を抱え、他の事に気を使う、ゆとりは無かった。二人の子供を連れて本牧の海岸で海水浴をしたり、散歩をする時が今までの一生の内で、一番楽しい事だった。

2006年10月12日 (木)

富士山とふじちゃん

郁太郎の3男ー菊郎

今から丁度80数年前、私が小学校え入学して間もない頃の話です。先生も生徒もおおらかなものでした。

三軒茶屋で二股にわかれている、一方の大山街道を、代官屋敷に向かう、この辺りは神社と氏子の関係が複雑にいり組んでいた。つまり喜久屋や、我が家の方は、太子堂の八幡様の氏子で、牛飯屋だの紺ちゃん達の道の向こう側は、駒沢村の氏子で祭りの日が違う、また表通りえ出て西え少し行くと、若林の氏子となり、これまた祭りの日が違うのだ。

今度越してきた、ふじちゃんの家は、駒沢方と若林方の境目の道路に面している所で、格子戸のはまった玄関の両側に、大きな石が転がっていた。ふじちゃんは、自分達と同じ第二荏原尋常小学校え入学した。学年は同じだったが組が違っていた。そして皆と違うのは、まるまると肥っていて、西瓜に目鼻をつけたような可愛い女の子だった。

だからすぐ、自分たち近所の子供達の話題になったが、その前に親たちの間でも話が出ていたそうだ。と言うことは、ふじちゃんの家は、縁日や、夜店などで花や植木などを売る商売で、随分遠くまで売りに行くと言うことなのだ。

また、富士講の役員をしていたので、そのうちに、ふじちゃんが肥っているのは、「富士山に登って、お山の空気を吸ったからだ」と言う話が流れて来た。私は、重ちゃんと福ちゃんを連れて、棒ぎれをもってふじちゃんの家の前の道路を叩きながら「ふじでぶ、ふじでぶ」とはやし立てた。ふじちゃんは出て来なかった。その夜何時ものように兄と枕を並べて寝た。そして、寝付くまで色々な話をした。富士山の空気を吸うと肥る話も出た。「内のお母さんはお山の空気を吸ったのかなー」と聞いた。兄は、「そんな事は、自分で聞いてみろ」と言うのだ。私は聞かない方が良さそうだと思いながら寝た。

次の日、富士山が気になったので、夕方、門の前に立って見ると、夕焼け空に、黒富士山がよくみえていた。良く晴れた日などは、富士山の前の箱根連山や、丹沢山系の山襞がはっきりと見えることがある。或る日、校庭にある肋木に登って富士山を見ていると。大河原君が登ってきた。「この前ここから、富士山に人が登っているのが見えたよ」と言った。

そうか、良く晴れた日なら、人が登っているのがみえるかも知れない、と思った。その頃、兄の教室は、出来たばかりの二階にあった。二階ならもっと良く見えるに違いない。一心不乱に見ていると、「その子、もう授業が始まったぞと」怒鳴られた。私は「富士山に人が登っているのを見ているんだ」と言い捨てて自分の教室に戻った。その夜寝る時、兄が「今日、お前が帰ったあと、皆が窓の所に集まって、富士山に登る人が見えるか、見えないかで大騒ぎになったんだ」と話してくれた。その時、先生が見えて「何を騒いでいるんだ、静かに」と言われた。皆が口を揃えて、「富士山に登る人が見えるんです」「どれどれ、と先生も窓から身を乗り出して、、「ほう、見えた、良く見えた」と言われたそうだ。私は「富士山を見ながら空気を吸うと、ふじちゃんの様に肥るのかなあ」と兄に聞きながら、「僕のお母さんも、富士山の空気を吸ったのかしら」と思った。

光る風  富士を駆け抜け  雲となり

富士山が  今日は見えます  春の道

富士山の  向こうの空も  春いっぱい

2006年10月 6日 (金)

深夜、斬られた指を捜しに

郁太郎の母「コノ」の女度胸

50人騒動の際、伯父は土肥大作の書生で相当、剣の方も出来ていたのであったが、その時は大作さんの申しつけで、襲撃隊の動静を窺うために外出していたが、今、50人組が押し寄せたと聞くと、韋駄天の如く土橋の見付座をめざして帰ると、門は固く鎖されて、梃子でも開かず、これは遅れたと思う途端、キラキラ光る太刀を持った一連が門を開けて飛び出して来たので、それ!と言いざま、連中と渡り合い、先方に一太刀加えたが、伯父も手首に二箇所の傷を受けた。それから伯父は大作さんに会い、その無事なるを喜び、大作さんの命令で一旦、脱藩して向かい地「中国地方」え逃げようと海岸に向かった。そこにある漁船を奪い取ろうとしたのである。所が、これを見た固陋派の一人が伯父の跡を追ってきた。いきなり斬りつけたが伯父はよし!と刀の鍔で受け止め返す刀で男の肩口をがくりと切り下げ、殺してしまった。その時伯父が持っていた刀の鍔は恐ろしく小さかったので、最初に相手の刀を受け止めた時、切っ先が触って右手の指が切り落とされたのであった。伯父はもう逃げ切れないと思った。今度捕まったら、自分も殺されると観念した。そこで、今生の見納めと、海岸から近い風袋町の我が家え向かった。その時、予の母は、入って来た伯父の手から血潮が噴出しているのを、直ぐに見つけ、手ぬぐいで縛った後、一本足らぬ指の所在を伯父に聞いた。すぐさま、裸足で提灯を下げ、暗い海岸に、ここか、あすこか、と捜し求めて、やっとその指を拾って帰り、伯父の指跡にそれをくっつけたのである。この母の健気な振る舞いについては、流石の伯父も、晩年に至るまで口を極めて感嘆した。お前のおっかさんは若い時はほんとに豪かった。あの晩は月も無く真っ暗で、星も見えなかった。世の中は騒々しく、殊に今、たたき斬ったばかりの屍骸の前にある指を捜すのであるから、普通の人では到底思いも及ばぬ事であろう。コノは若い婦人なのに、直ぐに飛び出していった。大した度胸だとよく予に話した。この騒ぎを契機に伯父は夜中に家を飛び出した。そして出かける前に、祖父に向かい、自分は総領であるが、こうした始末で、とても家の面倒を見ることは出来ぬ、万事は妹のコノに託する。と言って失踪してしまった。こうした事で予の母は年老いた父母を送り、祖先の祭祀を果たしてきたのである。それ故、伯父としては竹森家の出世大将、酬うべきことは何でも出来る自分になっている。この事が、やがて予等3人を引き受け、世話をしようと発心する事になった。然し、当時は予等3人とも、そんな込み入った事情は知らず、一途に東京に対する憧憬を深めるのであった。

2006年10月 5日 (木)

ちえこの新婚生活-1

私の父は平常から色々な人と付き合いが派手であったから、私の結婚のお祝いに、着物や何かを山のように頂戴した。絹の布団も二組持って新居に着いた。新居は二階が一間、下は6畳に台所が付いていた。義母は私を早速、新教の祭壇の前に座らせ、拝まされた。それから毎日、夜は12時前に寝かされた事は無かった。朝は暗い5時頃から下でパタパタされるので、飛び起きた。それでも、初めてのお正月、丸髷を結って先方の親戚に挨拶に行った。それから日の経つうち、私が実家から持っていった物がどんどん無くなっていった。どうも、挙式の費用も、写真代も出してないらしかった。後年、この事は、母に確かめたが、本当の様だった。ある朝、私が、おそくなったと飛び起きると、姑が二階に上がって来て、枕が二つならんでいたのを見ると、足でそれを蹴っ飛ばした。

それからが大変だった。浩が私に、「神様を拝まなくても良い」と言ったと言うと、益々猛り狂るって、お説教をするのだった。家主の開明軒と言う洗濯屋の女将さんが家賃20円を払えと催促にくるが、払えないから待ってくれと言う事だけでも、最初は非常に苦痛であった。姑は「嫁に来て、一年もならないのに、浩の月給を取り上げてしまう、鬼の様な嫁だ。あんたなんか貰わなければ良かった」と毎日の様に口汚くいわれていた。実際は浩から一円も貰えず、私が母から貰ったお金で二人を食べさせている状態であった、がその内に、そのお金も無くなり、私のルビーの指輪、アレキサンドリアのペンダント、金時計、もいつの間にか無くなった。浩の帰りは毎日遅く、二階の窓から、大久保駅に電車が着くのを、1時、2時迄起きて見ていた。すぐ隣の二階家には日本画家がいて、毎日、女の人の絵を描いていた。私も描きたいなーと始めて想った。或る日、浩が火鉢の前で、私に話しておきたいと、真面目な顔で言った。自分の手の指の事だった。家には代々指が曲がる遺伝があるそうで、曽祖父は両手の親指が曲がっていたそうだ、自分は左手の小指が少しまがっていると。見せられた私は本当にぞっとした。これは又、うまく騙された。仲人も綺麗に騙された。生活も私と結婚する前はどん底生活だったらしい。大学を出て、ちゃんとした所に勤めていれば、こんな苦労はしなかっただろうが、私も愚痴ばかり零さず、どこかで働けばよかったかと、今では想う。当時は女が働くなど、考えられなかった。毎日毎日、の辛い事を親にも言えず、毎日宛名無しの手紙を書いて箪笥に仕舞っていた。或る日、父が来て、これからお宅と内は内々だから、何でも困った事があったら相談してくれと言ったが、姑は怒って「内の事はほっといてくれ」と言った。流石に穏かな父もがっかりしたようだった。それにも増して、自分の調べ方が悪かったために母にも責められ、ちえこを本当に可愛そうな目に合わせたと、悔し涙を流した事だろう。

東京えの憧憬

兵学校「海軍」を目的にして丸亀中学から東京の海城中学え転校していった弟は、早番、海軍将校となり、奏任官として、予の前に現れよう。体格の小柄な、軍人になれぬ予が、弟と同様、奏任官の資格を得るには、今の郵便局では到底望みは無い。それには、裁判官と言う道がまえに開かれている。現に予の知人がそれを証明しているのだ。これだ、これに向かって進むより他に道は無い。殊に、東京の伯父は弟だけを引き受けると言ったのではない。「子供達を田舎に埋もらすのは悪い、東京え寄越したらどうだ」と言ったのである。そこで予は裁判官を目的に、上京する事に腹を決めたのであった。

ここで、順序として、予等兄弟の上京に付いての動因を述べなければならない。祖父、完治、死去の三周忌に、東京の伯父夫妻と長女、ミツが帰省した。伯父は我が家の出世大将である。その大将が故郷え錦を飾って帰ってきたのであるから、伯父の妹である母の鼻は高い。それが、予等、子供達にも及んで毎日を賑やかに、楽しく過ごした。伯父は竹森家の長男である。普通ならば竹森の家を継ぎ、祖父母を扶養しなければならぬのであるが、伯父は分家をして東京に一家を建て、祖父母の扶養と祖先の祀りを総て予の母に任し切っていたのである。それには、次のような訳があった。

明治2年、当時の丸亀藩に大きな騒動が起きた。それは、当時、何処の藩にも起こったように、藩籍奉還を巡っての二つの争いであった。一つは時勢の将来を透見した一連で、この方面の人士は、明治政府の命ずるがままに藩籍を奉還せよ、廃刀もせよ、士族と平民が一緒になって朝廷の為に奉公をせよ、と言う。「これは、今で言う開進党である」それに対する別の一派は固陋派というもので、その言う所は薩、長の奴らが幕府を倒して、新たな幕府を作ったのが、明治政府である。それに支配せられて、数百年連綿として続いて来た藩籍を奉還することは、取りも直さず、薩、長に屈服することである。断じてこれを排撃せねばならぬ。ところが、開進党の方は文治派で、固陋派の方はいずれも武芸に達した武断派でった。そして、この一連は50人が結束して、文治派の方え猛烈に対抗したのである。それが次第次第に激化して遂に剣に物を言わして、勝敗を決せんとするまでに至った。文治派の棟梁は土肥大作を中心に、丸亀の中央にある土橋の見付座に集合して、何事かを協議していた時、それを予知した固陋派の50人は抜刀して文治派を襲撃したのである。かくと知った土居は、座の畳を上げて、その隙間に太刀をはさみ、火を消して、襲撃を防いだ。この争いで双方に十数人の死傷者がでた。その後、藩庁では双方の主脳者を捕らえて処分し、やっとこの騒ぎが終わったのである。これが、丸亀藩で有名な、「50人騒動」と言われている。

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