或る日、お米も無くなった
ちえこ 21歳で二人目を!
或る日、とうとう、お米が無くなった。浩も電車賃が無くて、歩いて会社に行ったようだ。それでも私は母にお金の無心はしなかったが、母が気をつかってくれて、黙って5円のお札を掴ましてくれるのだった。その内、浩の叔母の夫である今井半次郎が心配をして、何とか、浩に良い職をと、横浜の専修商業学校に4月から勤めることになった。校長先生が今井の叔父の友人だった。家は本牧に丁度良い借家があり、三渓園も近く、山の下ではあるが、間取りも姑との同居生活に丁度良く、喜び勇んで赴任した。思い出多い三軒茶屋を離れるのは心細かったが、、、、月給も70円と聞き、やれやれこれで一息つけると安心した。
新しい家の家賃は20円だった。当時お米一斗が2円20銭だったので、毎月25円ぐらい貯金する事が出来た。暫くして、やっと25円で洋服ダンスを買う事が出来た。昭和8年の1月長女が生まれた。2番目のお産は軽いと聞いていたので、油断もあったけれど、姑は何一つ協力してくれない。長男は母が連れて行っているし、丁度お昼ごろから痛み出し、たまらずお産婆さんを呼んだ。凄いデブのお産婆さんは、夜中に私のお腹の上で寝てしまう始末。朝になってデブさんは大慌て、お湯で温めたりしている内に、やっと10時過ぎに生まれた。こんな難儀なお産は滅多に無いのではないかと思う。何しろ姑は体が弱い弱いと言って、嫁がお産で寝ていても、食事を作るなどとんでもないと考えるらしく、長男の時もゴタゴタしたけれど、赤ん坊のおしめ一枚洗ってくれず、結局、家政婦を一週間頼んだ。浩も姑に似て雨戸の一枚も開けてくれない人だったので、総て私がやるしかなかった。それでも、二人の子供に恵まれ、きちんきちんと入って来る月給に、初めて、幸せをかみ締めたのであった。浩の学校の同僚先生達は本当に遊び人が多く、年中飲んで遅く帰り、朝、目が覚めてみると、同じ蚊帳の中に、見知らぬ男が寝ていて驚く事もしばしばだった。浩は若くてハンサムな先生と女学生に言われて、そのポケットにはよくラブレターが入っていた。然し、私は二人の子供と姑を抱え、他の事に気を使う、ゆとりは無かった。二人の子供を連れて本牧の海岸で海水浴をしたり、散歩をする時が今までの一生の内で、一番楽しい事だった。

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