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2006年11月27日 (月)

郁太郎の上京

予は両親を丸亀に残し上京した

明治33年、予の上京したときは、恰も北清事変の真っ最中で、天津を中心に我が軍は列国の駐屯軍と協力、支那軍を向こうに回して戦っていた時であった。そして我が伯父は、その全軍費を賄う役つきである「臨時陸軍経理部長」と言う重職につき、連日、目の廻るような、忙しい事務を切り盛りしていたのであった。さて上京した予はすぐに神田区三崎町にある日本法律学校え入学した。当時法律を専門にする学校は他に早稲田法律学校、明治法律学校、中央法律学校があった。日本法律学校は男爵、松岡弘毅と言う人が校長で、戸水寛人、小林丑三郎、と言った博士が教授をしていた。そして何れも、昼と夜を二回に分けて、学生を募集し、予は夜の組を選んだのであった。入学試験は極めて簡単なもので、英語と数学、漢文の三課であったが、予にとって、余りにも易しいので驚いた次第である。漢文はただ入門と言う題で作文を作らせるのみであった。予は元々文章が好きであった為に、この問題には頗る興味が起こり、例の「大学」にある文章を冒頭において作文を作ったら、入学許可は直ぐに送られてきた。予が上京してからの弟は、昔と違って、大いに力強くなっていた。二人の兄弟には伯父宅の玄関脇、6畳間をあてがわれ、予は、昼は家庭の手伝い、そして夜に通学する。弟は朝から日比谷公園に近い海城中学え通学していた。所がここに一つの問題が起こった。それは弟が、国許の両親に宛てた手紙を伯母に奪われ、そして伯父の手に渡ったのである。その手紙には伯母の日常的な邪険な振る舞いの数々、又、伯父を虐げている様子などが、細々と書いてあったので伯父は激怒した。

2006年11月 6日 (月)

本牧ー妙蓮寺-蒲田ー原宿え

地獄えの入り口ー原宿に引越すーちえこ

秋に有名な室戸台風が来て、30メートルの風が吹き、家の周りの塀や日除けの鉄棒も皆飛んでしまった。夜中には裏山がどーんと崩れて、大木が横倒しになった。もう少し家の方だったら、おばあちゃんの部屋は潰れていただろう。

毎月に、きちんと入る月給で、少しずつ生活が落ち着いてきた頃、菊名の山の上、妙蓮寺駅の近くに、いい家が有ると浩が見つけて来た。家賃は24円、昭和9年10月に引越した。私は3人目の次男を妊娠し、あくる10年3月21日に次男 健が誕生した。世の中は段々ときな臭いが増え、神社で行われる出征兵士の壮行会が目に付きだした。浩の伯父は理学博士で、地質学で鉱山「金鉱、石炭山」の権威で、当時三菱鉱業の技術重役として北海道で活躍していた。その伯父が、会社を辞め、自分で北海道大沼での鉄山開発を目指して新会社を設立した。「当時の世相は戦争を控え、鉄を求める強い時代の慾求があったのであろう」伯父はは原宿に敷地100坪以上の邸宅に住んでいた。当時の原宿は華族お屋敷が多く、広い邸宅の庭には柿の木が沢山植えられ、極めて静かな住宅地であった。伯父は新会社を設立して浩を支配人採用し、自宅の近くにあった80坪の庭に古屋の借家を世話してくれた。私達は早速、家賃25円の古屋に引っ越した。暫くして、伯父が会社を設立した際、株の発行で不正があったとかで警察沙汰になり、ゴタゴタしている内に伯父が脳溢血で倒れた。半身不随であった。酒が好きな人であったが、下部温泉で療養に努めたが、2回目の発作で亡くなった。その後、会社は製薬会社を経営されていた丹沢さんに後継社長を、浩がお願いして事業を存続、活動する事になった。それで浩は、いくらか余裕が出来たと見え、自分ばかり贅沢を始めた。又、5000円で借りていた古屋を買い、家を壊して立て直すと言う。時あたかも戦争が益々激しくなる事が予想される時に、家を建てるなんてとんでもないと反対したが、浩は聞く耳を待たなかった。後年待ち受ける地獄の入り口は段々大きくなり始めていた。

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