2006年12月19日 (火)

寒がり羊が原宿小学校え

昭和14年春、原宿小学校に入学した

原宿小学校は神宮前3丁目10番にあり、いやあったというべきであろう。渋谷区では戦後の町名改正で、原宿より神宮前の方が通りが良いと判断したと見える。現在になって、原宿がブランドになるとは夢にも思はなかったのだろう。いまでは原宿の名が付くものは駅、警察、ぐらいか?昔は穏原小学校であった。明治14年9月、原宿、穏田、両村の連合公立小学校となり、その後、穏原「おんばら」尋常小学校と改称され、明治33年10月、現地に校舎が新築された。「33年は羊のおじいさんが丸亀から上京した年と重なる」この隠原と言う名付親は表参道脇のお屋敷に住む大山巌「陸軍元帥」だと言われている。当時は稲田が見える静かな田園の中の学校であったが、付近に段々と住宅が増え、児童数も増加した為、大正12年4月に分教場「現在の神宮前小学校」が設置された。昭和16年4月から渋谷区立原宿国民学校と改称。昭和19年から児童は戦争の為、奥多摩、静岡の掛川のお寺、最後は青森の五所川原のお寺にと、集団疎開で引っ張りまわされた。羊たちよりも下の、児童と先生の苦しみは、大変な事であったろう。昭和20年5月25日の夜、B-29500機の焼夷弾により歴史ある校舎は灰燼に帰した。終戦後の昭和21年3月、65年にわたる輝かしい学校の歴史に終止符が打たれた。寒がり羊は原宿が好きだった。大きな屋敷には庭に多くの柿の木が植わっていて、秋になると、柿泥棒に、熊野神社のお祭りの屋台では新聞紙に包まれたどんどん焼きが好物だった。日曜日には原宿教会に行き、賛美歌を歌って、綺麗なカードを貰った。和菓子屋では、まだ砂糖やあんこがあり大福を幾らでも食べる事が出来た。戦争に突入する前の、自由な、そして、贅沢な、毎日。夕日が沈む前の一瞬の光芒の中で迷える羊は少年時代を過ごした。

2006年8月 4日 (金)

東京市外世田谷町太子堂で羊を生んだ

ちえこは三代目寒がり羊をみごもった。

ちえこは結婚し、6月に子供が出来るのだが、、丁度、信州上松にいた夫の姉一家にも子供が生まれるので、姑がそちらに手伝いに行き、ちえこは近所にいる母にお願いをした。ちえこは始めてのお産であるし、本当は、実家に帰ってお産をするのが普通なのだろうが、子供も多いし、新しく借りた家で羊を出産した。父母と夫は一緒に喜んでいた。一週間して、姑から電報が来て「今日帰る」といって来た。ちえこは本当にびっくりした。夜遅く帰って来た姑は、「我が家の大切な初孫が出来るのに、私がいなくてどうするの」と言うことらしかった。折角電報を打ったのに夫は迎えにも来なかったと、怒る事怒る事、ちえこは寒がり羊を抱いて、実家に逃げ出すのであった。そんなこんなのごたごたで、乳の出が悪く、羊は段々と痩せていき、皆から、ガンジーのあだ名が付いてしまった。それからはミルクで育てる事にした。姑とは、どうしてもうまくいかず、別居するより仕方がないと、ちえこは世田谷一番町に引越し、姑は太子堂近くの一室のいえを借り、S教の布教に励んだ。経済状態が良くなった訳でもないのに、二所帯に分かれたため、家計は益々逼迫、羊のミルクも買えない。家賃は14円50銭だけど、姑の家賃も払わなければならず、残りで30銭の鷲印のコンデンスミルクが買えたら、天にも昇る気持ちになった。お金が無い時は、5銭のミルクをお湯で薄く延ばして飲ますので、直ぐにピーピー言い出すのだった。又、月末になって、ガス代、電気代、などを集金にきたら、それを断るのが辛くて近所の人にみつかるのも嫌で、羊を負ぶって、実家に逃げ出すのが常であった。昭和6年は世界恐慌の波を受けて、大不景気、大学を出ても碌な就職口は無く、又、満州事変によって戦争の時代に突入する時、寒がり羊は希望の無い将来に向けて薄いコンデンスミルクで幸い少ない人生をたどり始めたのである。

2006年7月29日 (土)

四国 丸亀に出世大将帰る

初代 郁太郎

予を最も愛撫していてくれた祖父が、突然、老衰の為に死んだ。そして、東京から、予の伯父で、予の母の長兄である郁夫夫妻が一子ミツを連れて帰って来た。この伯父は、予の一家にとっては、出世大将で、当時、陸軍の主計大尉であった。「東京の伯父さんが帰って来た」と言うので、一家親族は、毎日の如くに予の家に集まり、伯父もまた、国を去って、初めての帰省であるから、連日大判振舞いをして、隣り、近所を散々羨ましめたものであった。当時、伯父は、ふとした話の序でに、予の母に向かい、「子供を何時までも、田舎で育てる事は考え物だ。小学校さえ卒業したら、3人共、皆、東京え寄越したらどうだ。」これには、予の両親は勿論、予等兄弟としても、闇夜に光を見たような、明るさを感じ、もう立派な人間にでもなったような気持ちを持ったのである。かれこれするうちに、予はかなり良い成績で高等小学校を卒業し、続いて、亀陽学舎に通学して、英漢数の3科目を一生懸命に勉強した。其の頃、日清戦役が始まった。その余波を受けて、父の商売はあがったりになった。これには、さすがの父も弱ってしまい、終には、軍夫の募集に応じて、出征せんとまで、心を決めたのであった。しかし、色々と運動の末、やっと丸亀連隊に臨時に出来た衛戍病院に、荷受人として採用される事になった。今迄仕事場で終日、鑢や刃物をいじっていた父は、其の時から、黒い洋服に軍帽をかぶって毎日連隊の営門を出入りする事になったのである。この戦争は約、2年続いて我が軍の大勝利となり、出征の兵士は威風堂々と凱旋してきたが、戦争の為に、傷つき、病を得た者は、容易に快癒することは無かった。そして、戦争が終わった後になって、新患者の数が増えてきた。そのため、父の仕事は日一日と忙しくなり、幾日も幾日も当直を続けて、家に帰る日が少なくなった。反面、お蔭で予の学資も満足に賄いうるようになり、母と予は、何時も喜んでいたのであった。何時の世も同じであるが、戦争が起こると、若い者の志望がガラリと変わり、軍人に集中される。其の時もそうであって、猫も杓子も、仕官学校、海軍兵学校と、それを志望する者が増えて来たのであった。若い小学校の先生が、陸士の試験に通った、だれ某は幼年学校に入ったと、それぞれの噂が、町の声として、人々の心を沸き立たせていたのであった。其の内に、予と共に、妹尾先生の所に漢学を習いにいっていた吉田耕一が陸士の試験にパスした、次いで予の先生であった新奥新太郎、喜多卯吉、隣家の橋野万蔵、も陸士に受かった。この頃から予の弟の研二は海軍兵学校えの志望が兆しかかったのであった。環境は時勢の波にあほられて、陸海軍えと若い者を引きつけて行くのであったが、予は元来、身長が五尺をちょっと出たばかりであったから、このあほりから取り除かれたことは当然である。それにしても、彼等の立身を白眼視していることには我慢できない。自分も又、それに相応する立身をしたいと念願をしていたが、何をやろうか。何処え向かうべきか。その立志の確定に毎日を送っていたのであった。

2006年7月20日 (木)

世田谷の関東大震災「3」

Photo_base3 朝鮮人が攻めて来た  二代 ちえこ

病院の庭に、何時までいてもしょうがない、皆、お腹も空いてきたし、そろそろ家に帰ろうかと、話がまとまり、暗い夜道を家に向かった。帰って、早速ご飯を炊き、大きな鉄鍋でジャガイモの味噌汁を作った時に、又、逃げろ逃げろの声と共に半鐘が鳴り出した。今度は、近くの連隊に逃げる事に決め、お釜や、味噌汁の鉄鍋を持って逃げた。連隊の庭に着いて、やっと、落ち着いてご飯を食べる事が出来た。味噌汁が美味しくて、お腹に沁みた。連隊の兵隊達はトラックに乗り、どんどん出て行った。暫くして、近くにいた男が、ここには火薬庫がある、何時敵が来て、火をつけ、爆発するか判らないから危険だと言う。やっと恐怖の夜が過ぎて、東が白み出したので、家に帰ることにした。皆の顔は鍋や釜の炭で真っ黒だった。家に帰ると、瓦の落ちた方を浅草の連中にひき渡し、私達は離れの3室に住んだ。明くる日から、朝鮮人狩りが始まったが、東北の人など、言葉のはっきりしない人など、疑いを懸けられて、大変だったらしい。三軒茶屋角の斉藤呉服店の前には、銃で打たれた人が転がっていた。後で聞いた話によると、逃げろと言う声を聞いても、何処にも逃げず、家に隠れていた人も近所にいたとの事。私たちも、随分要らない心配をしたものだと、家族で話した。総てが流言蜚語で、一人が言い出したことに、多くの人が従ってしまう。朝鮮人が攻めても来ないのに、玉川で砂利取りをして働かされていた人が、日本人とけんかをして、あいつが井戸に毒を入れたとか、何をしたとか、あること、無い事を噂して、噂が噂を呼んだに違いない。今の様にラジオやテレビがあれば、こんな事にはならなかったと思う。家に逃げてきたお寿司屋のおじさんは本当の江戸っ子で、歯切れの良い江戸弁をしゃべった。

毎日浅草の焼け跡まで、片ずけに歩いて通った。帰りには、焼けた硬貨の塊りや、井戸に放り込んで助けた娘の着物などを、担いで運んで来るのだった。

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