2006年9月24日 (日)

憧れの多度津郵便局え

局長である賀一さんは、物静かな、お店の主人といった風であった。丸亀藩では、かなり格式の上の戸祭家から入ってきたようだ。継母と、その継母に出来た義弟達の間に育っていただけに、どこかに、憂鬱な影が差し、時として、その憂悶から来る癇癪を、予等使用人に発散する事があり、人は皆、何時とはなしに、賀一さんの顔色を窺うようになり、予も亦、叱られまい、怒られまい、と次第次第に卑屈になり、良心を曲げるようになってきたのである。そして賀一さんの父である翁は丈の高い痩せ型の気難しい老人であった。この老人も亦、賀一さん並に、使用人には恐れられていた。予は電信技術が専門であったが、局が3等局である関係で、郵便の仕事もてつだっていた。その関係で一日、不能郵便物調べと言う使命で、予の父の出生地である息吹島え渡航した。島には、父の継母と義弟夫妻が住んでいた。そこえ予は官吏として出張し、その家を訪ね、少なからぬ面目を施したのである。兎角するうちに、予は1等郵便局である多度津え転勤を命じられた。ここえの転勤は当時予等の仲間にとっては、非常な憧れであって、又、栄転であった。予は雀躍して喜んだ。そして、僅々六ヶ月でそこえ引き揚げてくれた、戸川寛蔵氏に対し心中密かに感謝を捧げたのである。そして、多度津え来た予は職名も通信事務員となり、月給も8円となった。

当時の局長は飯田精一と言う美男の法学士で、電信課長は鵜飼さん、予を支持してくれた戸川さんは電信係長をしていた。観音寺局では1台しかなかった

モールス印字機は、1等局だけあって、十数台がズラリと並んでいた。暫くする内に、地方の郵便局からも旧知の人が多度津にやって来た。中でも、予に最も奇寓を感ぜしめたのは、予が観音寺局、在勤中、毎日、電信の線上で心安くしていた新名直和が伊予の西条局から、予の小学校の同級であった清水功が伊予の大津から転勤してきた事である。予の月給が8円になった明治31年、書記補に任じられた。辞令には透かし絵に、桐の紋が入り逓信省と言う字が書かれていた。今までは、多度津郵便電信局であったのが、逓信省となり、愈々、判任官となったのであるから、両親を始め、一族の喜びは大したものであった。蓋し、この時分から、予はボツボツ、東京えの憧憬が萌しはじめたのであった。それには、ふたつの理由があった。その一つは、予の下の弟が伯父の慫慂によって上京したこと。今ひとつは予と親しくしていた若い判事が、奏任官であると言う事を知ったからである。

2006年8月30日 (水)

18歳で家を旅立つ 観音寺え

今から思えば、戸川氏夫妻の暖かい心ずかいが与っての力があったものと思う。時に予は18才であった。生まれて初めて、父母の膝元を離れて、観音寺に旅立つのである。僅か行程7里弱の処であるが、それでも、当時の予にとっては、千里異境に行くの感がしたのであった。母は、この初旅の予を送るために、新しい着物を整え、布団を新調し、何日もかかって、一つ一つ中型の柳行李に詰め込むのであった。時は、桜には早い3月の中旬であった。予は、いよいよ懐かしい故郷を後に、観音寺えの初旅に出るのである。両親や友人知己に送られる予は、一台の人力車に乗り込み、両股で柳行李を挟み「それでは行って参ります」と西に向かって走り出した。車は静々と丸亀から金蔵寺え、金蔵寺から鳥坂と進む。車夫はかねてから父と心安い者、殊に父から懇々倅の事を頼まれている関係で、車を引きながら車上の予に向かって、何くれと無く、面白い話を始めるのであった。其の内に、金蔵寺も過ぎ、鳥坂の中腹え差しかかった。坂はさして、峻険と言う程ではないが、老車夫にとっては、かなりに苦難であった。丁度良く坂の中途に一軒の茶店がある。ここは、この道を往復する者の休み処で、予も車夫の薦めで、ここで一休みする事になり、ホッと息をはいたのである。一休み後の車棒は軽かった。それよりだらだら坂を上高瀬、下高瀬、本山、と色々な村を突っ切って、午後4時に目指す観音寺町に辿り着いたのである。予が着いた観音寺郵便局というのは三等局で、それを経営しているのは、東と言う上市唯一の醸造家、藤田東三郎と言う人であった。郵便局は、其の酒屋の西側にある、小奇麗な二階建てで、内部は一つ所帯であるが、表面は、ハッキリと二つに区画されていたのである。酒屋の方は、東三郎翁が引き受け、郵便局のほうは長男のがいちさんが引き受け、局長でもあった。がいちさんは電信技術を終了した資格者で、聡明な好男子であった。何時も美しく髪を梳り、キチンとした着物に袴をはいていた。予が東三郎翁に会い、がいちさんに迎えられると、彼は非常に歓迎し、予を先導して、局の先輩である大西さん、戸祭さんに紹介された、其の日より大西さんが主となって、親切に予の世話をしてくれたのであった。

2006年8月 3日 (木)

多度津の一等郵便電信局へ

或る日、友人の渡辺が訪ねてきた。彼は予と同齢であるが、予よりも一年先に小学校を卒業し、卒業後、人の薦めに応じ、多度津の郵便電信局「当時、四国唯一の一等局」で電信の技術を習得しつつあった。そして、其の習得が終わると、直ぐに電信技士として琴平郵便局へ赴任する事になっていたのである。彼は予の、いまだ志が決まっていない事を咎め、予の父に自分と同様、電信の方えすすんだらと、薦めたのであった。そして、6ヶ月の技術練習中にも手当てが出る事、それが終わると、ただちに5,6円の月給がつくと言う事等を得意らしく話すので、父も、予も、少しばかり心を動かされたのであった。今からみれば、5,6円の月給は物の数ではないが、当時は巡査が8円、小学校の先生は6,7円、と言う時代に16歳の少年が、それだけの給料を収入すると言う事は、相当な出世であった。そこで、家族協議の末、渡辺の勧告に応じて練習生志願の手続きをとる事にした。当時、電気通信技術伝習所の主任は庄野さんと言う書記で、其の上役の電信課長は戸川寛三さんという方で、父と母はその奥さんを良く知っていた。両親は「ああ、あのお霜さんの亭主か、それなら一つお願いして見よう」父は予を伴って多度津の私邸に戸川さんを訪ね、懇々と将来を頼んだのであった。戸川さんは坊主頭で、風采は上がらぬが、温厚篤実な方で、快くこちらの願いを入れてくれたのであった。が、それよりもひどく、予等に好感を与えたのは夫人であった。彼女は初対面の時から、予を実弟の様に取り扱い、何処までも面倒をみるから、安心せよと言われたので、これなら、将来、有望であるぞと言う自信ができたのであった。明治29年4月23日、無事に伝習生の試験をパスし、丸亀の自宅から多度津の間、約一里を毎日、柳製の弁当を抱え、徒歩で通学した。伝習所は多度津の入り口にあり、多門院と言うお寺の一隅であった。朝決まった時刻に丸亀から多度津えの通勤者が踵を接してぞろぞろ歩くのであった。それは皆、郵便局の役人であった。予は伝習生と言う辞令を拝命した。最初トンツートンツーと電信符号「モールス印字イロハ」を習い、それを暗記すると、今度はモールス印字機をあてがわれ、其のキーを盛んに叩いて指先を馴らし、それが終わると、本物の機械にかかり、イロハと細い紙に、自分の叩いた字を打ち出して調整するのである。伝習は極めて簡単であるが、それでも、生まれて初めて手にかけるものだけに、相当の苦労はあった。予の家は丸亀の東端である、そこから丸亀の西端、船頭町え出るまでは相当の路のりがある、従って予は、毎朝人一倍早起きして、2度分の弁当を柳に詰め、家を飛び出し、町外れで同僚の森田と会い、塩屋、中津、鴨、と一筋道を往復した。間に中津川と言う河がながれている。その橋際に一軒の茶店があった。我々通勤者にとって、この茶店こそ、砂漠におけるオアシスであった。一行は往復にきっと、ここに腰を下ろし、茶を一腹し駄菓子を摘み食らうのが常であった。今もって予が忘れられないのが、或る日、新しいサツマイモを山盛りにふかして、予らを待っていてくれたことである。このときの藷の美味は到底忘れえぬものである。この様にして、早くも六ヶ月の伝習期間も過ぎ、予は同僚の森田、田中と共に

明治29年10月23日修業証書を授けられた。証書は東京郵便電信学校長 湯川寛士の名により発令されている。次いで、3人の勤務先も決まった。森田が伊予の内子郵便局、田中が讃岐の志度、そして、予は最も近い観音寺局に行く事になった。

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