憧れの多度津郵便局え
局長である賀一さんは、物静かな、お店の主人といった風であった。丸亀藩では、かなり格式の上の戸祭家から入ってきたようだ。継母と、その継母に出来た義弟達の間に育っていただけに、どこかに、憂鬱な影が差し、時として、その憂悶から来る癇癪を、予等使用人に発散する事があり、人は皆、何時とはなしに、賀一さんの顔色を窺うようになり、予も亦、叱られまい、怒られまい、と次第次第に卑屈になり、良心を曲げるようになってきたのである。そして賀一さんの父である翁は丈の高い痩せ型の気難しい老人であった。この老人も亦、賀一さん並に、使用人には恐れられていた。予は電信技術が専門であったが、局が3等局である関係で、郵便の仕事もてつだっていた。その関係で一日、不能郵便物調べと言う使命で、予の父の出生地である息吹島え渡航した。島には、父の継母と義弟夫妻が住んでいた。そこえ予は官吏として出張し、その家を訪ね、少なからぬ面目を施したのである。兎角するうちに、予は1等郵便局である多度津え転勤を命じられた。ここえの転勤は当時予等の仲間にとっては、非常な憧れであって、又、栄転であった。予は雀躍して喜んだ。そして、僅々六ヶ月でそこえ引き揚げてくれた、戸川寛蔵氏に対し心中密かに感謝を捧げたのである。そして、多度津え来た予は職名も通信事務員となり、月給も8円となった。
当時の局長は飯田精一と言う美男の法学士で、電信課長は鵜飼さん、予を支持してくれた戸川さんは電信係長をしていた。観音寺局では1台しかなかった
モールス印字機は、1等局だけあって、十数台がズラリと並んでいた。暫くする内に、地方の郵便局からも旧知の人が多度津にやって来た。中でも、予に最も奇寓を感ぜしめたのは、予が観音寺局、在勤中、毎日、電信の線上で心安くしていた新名直和が伊予の西条局から、予の小学校の同級であった清水功が伊予の大津から転勤してきた事である。予の月給が8円になった明治31年、書記補に任じられた。辞令には透かし絵に、桐の紋が入り逓信省と言う字が書かれていた。今までは、多度津郵便電信局であったのが、逓信省となり、愈々、判任官となったのであるから、両親を始め、一族の喜びは大したものであった。蓋し、この時分から、予はボツボツ、東京えの憧憬が萌しはじめたのであった。それには、ふたつの理由があった。その一つは、予の下の弟が伯父の慫慂によって上京したこと。今ひとつは予と親しくしていた若い判事が、奏任官であると言う事を知ったからである。

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