2006年12月12日 (火)

伯母のいじめ

弟はこれまで残酷ないじめを伯母から受けていた

毎朝5時に起こされ邸内の深い井戸から重い釣瓶を手繰って、風呂の水を30杯ほど天秤棒で担いで汲み入れた、学校から帰ると、風呂の汲んだ水の上に松や楓の葉が浮いていたと伯母は激怒して、水を流し、再度汲み入れさした。又ある夜、学校から帰宅し復習をしている際、昼の疲れで、そのまま机にもたれて眠ったのであるが、いつか寒気を感じて目を覚ますと、机の上にあったランプが消えていた。ランプが消えている以上、誰が消したのであろうか、その際両親であれば、風邪を引くから早く寝ろとか、羽織の一枚も肩に掛けるとかしてくれるであろう。これはほんの一、二例であるが伯母のなす事、する事、いつも実母のそれと比較して、無性に伯母を厭忌し、癪にさわり、幾度人知れず泣かされたか知れなかったのであった。それらが積もり積もって、遂に国許えの手紙となり、それが伯父の読む所になって、伯父から目から火の出る様な叱責となった。予も、この状況には一驚を喫したのであった。そしてこのまま、伯父の世話を受けて両人が寄宿していては、海軍志望の弟の健康を害すること必定である。さればといって我々の両親に、今更、我侭を言って飛び出し、金を送れと言うのも恥ずかしい。そこで一日、二人で密かに相談した末、一先ず予が先に家を出て収入の道を図り、その目策がついてから弟を引き取る事にしたのである。然るに、この話は伯父にとっては、非常な衝撃であった。それは、いやしくも伯父が子供を引き受けるからと、予の両親に約束して上京させたのに、その肝腎な子供に逃げて行かれるのであるから、痛かったのには相違ない。そのため、あらゆる手を以って、それを思い止まらせようとしたのであったが、こちらの決意が余りにも固かったので、さすがの伯父も遂に予の外泊を許したのであった。これより前、予は親友の香川、大岡としばしば接近をしていた。そして伯父宅の事情も二人に話していたので、一先ず両君の下宿に世話になる事に決め、その承諾を得ていたのである。又、勤めの方は、幸い多度津で散々お世話になった戸川さんが当時、東京郵便電信局に在勤していたので、戸川さんに就職を依頼し、そこえ勤めることになった。かくのごとくして予は明治33年の5月28日付きで電信局の通信助手を拝命し、伯父の家を出て、神田区神保町の両君の間借りをしている6畳間に入った。

建替えのために世田谷え

昭和16年地主は80坪を3000円でーちえこ

原宿の家を建て替える為にちえこの実家世田谷代田の近くに借家を家賃70円で借りた。家を建てる計画は、総て浩の一存で、普通の2階屋を建てると言うがちえこは小さくても良いから鉄筋コンクリートの家にしてくれと頼んだ。浩は聞く耳を持たなかった。家は15年12月28日竣工した。費用は、旧家屋の購入費5000円、新築費40坪で12000円、設備、庭の造園費8000円、計2万5000円であった。世の中は段々と戦争の拡大に向かい、食料も配給制になった。浩のお金の使い方に不満のちえこは子供達がいる前で掴み合い、怒鳴りあいの喧嘩の毎日であったが、流石に喧嘩に疲れた浩は16年のお正月に、ちえこが兼ねてから熱望していたアメリカのシンガーミシンをプレゼントした。ちえこはいっぺんに機嫌を直した。それから毎日新築の応接間にミシンを置き、色々な布を買って着ては子供達の服作りに熱中した。或る日、3軒隣の大邸宅に住む岡村海軍中将「地主」が土地「80坪」を3000円で買ってくれないかと言って来られた。浩は、もうお金が無いし、借金も出来ないと、隣の地主である吉川さんに買ってもらった。浩は絶好のチャンスを逃して、後年まで家族に馬鹿にされた、何の為に東大経済学部を卒業したのかと。「岡村家の長男、岡村昭彦は当時学習院に通っていたが、後年、ベトナム戦争の日本人従軍カメラマン第1号として活躍した」16年5月、日赤病院で3男の秀が生まれた。父が病院え見舞いに来てくれた、男で良かったと言ってくれたが、その言葉には何時もの元気が無かった。

2006年11月27日 (月)

郁太郎の上京

予は両親を丸亀に残し上京した

明治33年、予の上京したときは、恰も北清事変の真っ最中で、天津を中心に我が軍は列国の駐屯軍と協力、支那軍を向こうに回して戦っていた時であった。そして我が伯父は、その全軍費を賄う役つきである「臨時陸軍経理部長」と言う重職につき、連日、目の廻るような、忙しい事務を切り盛りしていたのであった。さて上京した予はすぐに神田区三崎町にある日本法律学校え入学した。当時法律を専門にする学校は他に早稲田法律学校、明治法律学校、中央法律学校があった。日本法律学校は男爵、松岡弘毅と言う人が校長で、戸水寛人、小林丑三郎、と言った博士が教授をしていた。そして何れも、昼と夜を二回に分けて、学生を募集し、予は夜の組を選んだのであった。入学試験は極めて簡単なもので、英語と数学、漢文の三課であったが、予にとって、余りにも易しいので驚いた次第である。漢文はただ入門と言う題で作文を作らせるのみであった。予は元々文章が好きであった為に、この問題には頗る興味が起こり、例の「大学」にある文章を冒頭において作文を作ったら、入学許可は直ぐに送られてきた。予が上京してからの弟は、昔と違って、大いに力強くなっていた。二人の兄弟には伯父宅の玄関脇、6畳間をあてがわれ、予は、昼は家庭の手伝い、そして夜に通学する。弟は朝から日比谷公園に近い海城中学え通学していた。所がここに一つの問題が起こった。それは弟が、国許の両親に宛てた手紙を伯母に奪われ、そして伯父の手に渡ったのである。その手紙には伯母の日常的な邪険な振る舞いの数々、又、伯父を虐げている様子などが、細々と書いてあったので伯父は激怒した。

2006年11月 6日 (月)

本牧ー妙蓮寺-蒲田ー原宿え

地獄えの入り口ー原宿に引越すーちえこ

秋に有名な室戸台風が来て、30メートルの風が吹き、家の周りの塀や日除けの鉄棒も皆飛んでしまった。夜中には裏山がどーんと崩れて、大木が横倒しになった。もう少し家の方だったら、おばあちゃんの部屋は潰れていただろう。

毎月に、きちんと入る月給で、少しずつ生活が落ち着いてきた頃、菊名の山の上、妙蓮寺駅の近くに、いい家が有ると浩が見つけて来た。家賃は24円、昭和9年10月に引越した。私は3人目の次男を妊娠し、あくる10年3月21日に次男 健が誕生した。世の中は段々ときな臭いが増え、神社で行われる出征兵士の壮行会が目に付きだした。浩の伯父は理学博士で、地質学で鉱山「金鉱、石炭山」の権威で、当時三菱鉱業の技術重役として北海道で活躍していた。その伯父が、会社を辞め、自分で北海道大沼での鉄山開発を目指して新会社を設立した。「当時の世相は戦争を控え、鉄を求める強い時代の慾求があったのであろう」伯父はは原宿に敷地100坪以上の邸宅に住んでいた。当時の原宿は華族お屋敷が多く、広い邸宅の庭には柿の木が沢山植えられ、極めて静かな住宅地であった。伯父は新会社を設立して浩を支配人採用し、自宅の近くにあった80坪の庭に古屋の借家を世話してくれた。私達は早速、家賃25円の古屋に引っ越した。暫くして、伯父が会社を設立した際、株の発行で不正があったとかで警察沙汰になり、ゴタゴタしている内に伯父が脳溢血で倒れた。半身不随であった。酒が好きな人であったが、下部温泉で療養に努めたが、2回目の発作で亡くなった。その後、会社は製薬会社を経営されていた丹沢さんに後継社長を、浩がお願いして事業を存続、活動する事になった。それで浩は、いくらか余裕が出来たと見え、自分ばかり贅沢を始めた。又、5000円で借りていた古屋を買い、家を壊して立て直すと言う。時あたかも戦争が益々激しくなる事が予想される時に、家を建てるなんてとんでもないと反対したが、浩は聞く耳を待たなかった。後年待ち受ける地獄の入り口は段々大きくなり始めていた。

2006年10月26日 (木)

東京を目指す郁太郎の弟

海軍兵学校を目指して 「地獄え行く」

伯父の一行が東京え帰って間もなく、次弟が東京に行くと言い出した。当時弟は中学4年生であった。後一年すれば卒業出来るのであったが、伯父の話を聞いては矢も盾もたまらず、是非、東京の海城中学え転校したい、海城中学校は海軍兵学校を志望する者にとって、最も都合のよい学校であると言い出した。伯父は子供を寄越せと言い、本人は自分の将来のために行きたいと言うのであるから話はすらすらと纏まり、明治32年の春上京する事になった。上京してからの伯父とその家族との生活に、明るく楽しいであろう東京の生活をイメージしていた。丸亀中学からの転校手続きも無事に済み、東京に出発した。当時伯父は東京の雑司が谷に1000坪の邸宅を構え、家族は伯父の妻よしと長女ミツ、女中のテルの4人暮らしであった。しかし喜び勇んで東京に着いた弟から来る手紙には、何時も伯母の虐待を知らせてきた。ヤレ食い物が粗末であるとか、毎日、がみがみと叱り飛ばされるとか、色々な労役に、骨が折れるとか。連日の精神的な疲れで、受験勉強も進まず、少し痩せてきたとか。一便、又一便、我々の両親や兄弟を顰蹙させる物ばかりであった。そこで、両親も俄かに、思い切って予を上京さすことに腹を決めたのである。それは、一つには弟の労苦を助ける意味と、今一つは、兄弟二人でいれば如何に鬼の様な伯母も、少しは苛責虐待の手を緩めるであろうと言う親心からであった。然し、予は来年が徴兵適齢であった。その検査を済まさぬ以上は、速やかに上京する事は出来ない。そこで弟には、「何とか辛抱せよ」との一点張りの便りをやって、何とか明治33年を迎えた。徴兵検査はその年の4月であった。しかし上京を急ぐ予としては、それまで待つ事さえもどかしいのである。父は勤めていた連隊司令部に運動、何とか、高松で2月に行われる検査に組入れて貰う事に成功した。2月の或る日、高松、成願寺の検査場で検査を受けた。5尺6分の予は、当然不合格、国民兵としてはオミットされた。予は喜び勇んで帰り、ただちに上京の準備に取り掛かった。逓信省えの辞職手続き、旅行の支度。かくて予は33年の4月18日の日付で依願免本官の辞令を貰い、出発の前日、両親は平素心安くしていた人々を招いて、今で言う壮行会を開いてくれたのであった。

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2006年10月23日 (月)

或る日、お米も無くなった

ちえこ 21歳で二人目を! 

或る日、とうとう、お米が無くなった。浩も電車賃が無くて、歩いて会社に行ったようだ。それでも私は母にお金の無心はしなかったが、母が気をつかってくれて、黙って5円のお札を掴ましてくれるのだった。その内、浩の叔母の夫である今井半次郎が心配をして、何とか、浩に良い職をと、横浜の専修商業学校に4月から勤めることになった。校長先生が今井の叔父の友人だった。家は本牧に丁度良い借家があり、三渓園も近く、山の下ではあるが、間取りも姑との同居生活に丁度良く、喜び勇んで赴任した。思い出多い三軒茶屋を離れるのは心細かったが、、、、月給も70円と聞き、やれやれこれで一息つけると安心した。

新しい家の家賃は20円だった。当時お米一斗が2円20銭だったので、毎月25円ぐらい貯金する事が出来た。暫くして、やっと25円で洋服ダンスを買う事が出来た。昭和8年の1月長女が生まれた。2番目のお産は軽いと聞いていたので、油断もあったけれど、姑は何一つ協力してくれない。長男は母が連れて行っているし、丁度お昼ごろから痛み出し、たまらずお産婆さんを呼んだ。凄いデブのお産婆さんは、夜中に私のお腹の上で寝てしまう始末。朝になってデブさんは大慌て、お湯で温めたりしている内に、やっと10時過ぎに生まれた。こんな難儀なお産は滅多に無いのではないかと思う。何しろ姑は体が弱い弱いと言って、嫁がお産で寝ていても、食事を作るなどとんでもないと考えるらしく、長男の時もゴタゴタしたけれど、赤ん坊のおしめ一枚洗ってくれず、結局、家政婦を一週間頼んだ。浩も姑に似て雨戸の一枚も開けてくれない人だったので、総て私がやるしかなかった。それでも、二人の子供に恵まれ、きちんきちんと入って来る月給に、初めて、幸せをかみ締めたのであった。浩の学校の同僚先生達は本当に遊び人が多く、年中飲んで遅く帰り、朝、目が覚めてみると、同じ蚊帳の中に、見知らぬ男が寝ていて驚く事もしばしばだった。浩は若くてハンサムな先生と女学生に言われて、そのポケットにはよくラブレターが入っていた。然し、私は二人の子供と姑を抱え、他の事に気を使う、ゆとりは無かった。二人の子供を連れて本牧の海岸で海水浴をしたり、散歩をする時が今までの一生の内で、一番楽しい事だった。

2006年10月12日 (木)

富士山とふじちゃん

郁太郎の3男ー菊郎

今から丁度80数年前、私が小学校え入学して間もない頃の話です。先生も生徒もおおらかなものでした。

三軒茶屋で二股にわかれている、一方の大山街道を、代官屋敷に向かう、この辺りは神社と氏子の関係が複雑にいり組んでいた。つまり喜久屋や、我が家の方は、太子堂の八幡様の氏子で、牛飯屋だの紺ちゃん達の道の向こう側は、駒沢村の氏子で祭りの日が違う、また表通りえ出て西え少し行くと、若林の氏子となり、これまた祭りの日が違うのだ。

今度越してきた、ふじちゃんの家は、駒沢方と若林方の境目の道路に面している所で、格子戸のはまった玄関の両側に、大きな石が転がっていた。ふじちゃんは、自分達と同じ第二荏原尋常小学校え入学した。学年は同じだったが組が違っていた。そして皆と違うのは、まるまると肥っていて、西瓜に目鼻をつけたような可愛い女の子だった。

だからすぐ、自分たち近所の子供達の話題になったが、その前に親たちの間でも話が出ていたそうだ。と言うことは、ふじちゃんの家は、縁日や、夜店などで花や植木などを売る商売で、随分遠くまで売りに行くと言うことなのだ。

また、富士講の役員をしていたので、そのうちに、ふじちゃんが肥っているのは、「富士山に登って、お山の空気を吸ったからだ」と言う話が流れて来た。私は、重ちゃんと福ちゃんを連れて、棒ぎれをもってふじちゃんの家の前の道路を叩きながら「ふじでぶ、ふじでぶ」とはやし立てた。ふじちゃんは出て来なかった。その夜何時ものように兄と枕を並べて寝た。そして、寝付くまで色々な話をした。富士山の空気を吸うと肥る話も出た。「内のお母さんはお山の空気を吸ったのかなー」と聞いた。兄は、「そんな事は、自分で聞いてみろ」と言うのだ。私は聞かない方が良さそうだと思いながら寝た。

次の日、富士山が気になったので、夕方、門の前に立って見ると、夕焼け空に、黒富士山がよくみえていた。良く晴れた日などは、富士山の前の箱根連山や、丹沢山系の山襞がはっきりと見えることがある。或る日、校庭にある肋木に登って富士山を見ていると。大河原君が登ってきた。「この前ここから、富士山に人が登っているのが見えたよ」と言った。

そうか、良く晴れた日なら、人が登っているのがみえるかも知れない、と思った。その頃、兄の教室は、出来たばかりの二階にあった。二階ならもっと良く見えるに違いない。一心不乱に見ていると、「その子、もう授業が始まったぞと」怒鳴られた。私は「富士山に人が登っているのを見ているんだ」と言い捨てて自分の教室に戻った。その夜寝る時、兄が「今日、お前が帰ったあと、皆が窓の所に集まって、富士山に登る人が見えるか、見えないかで大騒ぎになったんだ」と話してくれた。その時、先生が見えて「何を騒いでいるんだ、静かに」と言われた。皆が口を揃えて、「富士山に登る人が見えるんです」「どれどれ、と先生も窓から身を乗り出して、、「ほう、見えた、良く見えた」と言われたそうだ。私は「富士山を見ながら空気を吸うと、ふじちゃんの様に肥るのかなあ」と兄に聞きながら、「僕のお母さんも、富士山の空気を吸ったのかしら」と思った。

光る風  富士を駆け抜け  雲となり

富士山が  今日は見えます  春の道

富士山の  向こうの空も  春いっぱい

2006年10月 6日 (金)

深夜、斬られた指を捜しに

郁太郎の母「コノ」の女度胸

50人騒動の際、伯父は土肥大作の書生で相当、剣の方も出来ていたのであったが、その時は大作さんの申しつけで、襲撃隊の動静を窺うために外出していたが、今、50人組が押し寄せたと聞くと、韋駄天の如く土橋の見付座をめざして帰ると、門は固く鎖されて、梃子でも開かず、これは遅れたと思う途端、キラキラ光る太刀を持った一連が門を開けて飛び出して来たので、それ!と言いざま、連中と渡り合い、先方に一太刀加えたが、伯父も手首に二箇所の傷を受けた。それから伯父は大作さんに会い、その無事なるを喜び、大作さんの命令で一旦、脱藩して向かい地「中国地方」え逃げようと海岸に向かった。そこにある漁船を奪い取ろうとしたのである。所が、これを見た固陋派の一人が伯父の跡を追ってきた。いきなり斬りつけたが伯父はよし!と刀の鍔で受け止め返す刀で男の肩口をがくりと切り下げ、殺してしまった。その時伯父が持っていた刀の鍔は恐ろしく小さかったので、最初に相手の刀を受け止めた時、切っ先が触って右手の指が切り落とされたのであった。伯父はもう逃げ切れないと思った。今度捕まったら、自分も殺されると観念した。そこで、今生の見納めと、海岸から近い風袋町の我が家え向かった。その時、予の母は、入って来た伯父の手から血潮が噴出しているのを、直ぐに見つけ、手ぬぐいで縛った後、一本足らぬ指の所在を伯父に聞いた。すぐさま、裸足で提灯を下げ、暗い海岸に、ここか、あすこか、と捜し求めて、やっとその指を拾って帰り、伯父の指跡にそれをくっつけたのである。この母の健気な振る舞いについては、流石の伯父も、晩年に至るまで口を極めて感嘆した。お前のおっかさんは若い時はほんとに豪かった。あの晩は月も無く真っ暗で、星も見えなかった。世の中は騒々しく、殊に今、たたき斬ったばかりの屍骸の前にある指を捜すのであるから、普通の人では到底思いも及ばぬ事であろう。コノは若い婦人なのに、直ぐに飛び出していった。大した度胸だとよく予に話した。この騒ぎを契機に伯父は夜中に家を飛び出した。そして出かける前に、祖父に向かい、自分は総領であるが、こうした始末で、とても家の面倒を見ることは出来ぬ、万事は妹のコノに託する。と言って失踪してしまった。こうした事で予の母は年老いた父母を送り、祖先の祭祀を果たしてきたのである。それ故、伯父としては竹森家の出世大将、酬うべきことは何でも出来る自分になっている。この事が、やがて予等3人を引き受け、世話をしようと発心する事になった。然し、当時は予等3人とも、そんな込み入った事情は知らず、一途に東京に対する憧憬を深めるのであった。

2006年10月 5日 (木)

ちえこの新婚生活-1

私の父は平常から色々な人と付き合いが派手であったから、私の結婚のお祝いに、着物や何かを山のように頂戴した。絹の布団も二組持って新居に着いた。新居は二階が一間、下は6畳に台所が付いていた。義母は私を早速、新教の祭壇の前に座らせ、拝まされた。それから毎日、夜は12時前に寝かされた事は無かった。朝は暗い5時頃から下でパタパタされるので、飛び起きた。それでも、初めてのお正月、丸髷を結って先方の親戚に挨拶に行った。それから日の経つうち、私が実家から持っていった物がどんどん無くなっていった。どうも、挙式の費用も、写真代も出してないらしかった。後年、この事は、母に確かめたが、本当の様だった。ある朝、私が、おそくなったと飛び起きると、姑が二階に上がって来て、枕が二つならんでいたのを見ると、足でそれを蹴っ飛ばした。

それからが大変だった。浩が私に、「神様を拝まなくても良い」と言ったと言うと、益々猛り狂るって、お説教をするのだった。家主の開明軒と言う洗濯屋の女将さんが家賃20円を払えと催促にくるが、払えないから待ってくれと言う事だけでも、最初は非常に苦痛であった。姑は「嫁に来て、一年もならないのに、浩の月給を取り上げてしまう、鬼の様な嫁だ。あんたなんか貰わなければ良かった」と毎日の様に口汚くいわれていた。実際は浩から一円も貰えず、私が母から貰ったお金で二人を食べさせている状態であった、がその内に、そのお金も無くなり、私のルビーの指輪、アレキサンドリアのペンダント、金時計、もいつの間にか無くなった。浩の帰りは毎日遅く、二階の窓から、大久保駅に電車が着くのを、1時、2時迄起きて見ていた。すぐ隣の二階家には日本画家がいて、毎日、女の人の絵を描いていた。私も描きたいなーと始めて想った。或る日、浩が火鉢の前で、私に話しておきたいと、真面目な顔で言った。自分の手の指の事だった。家には代々指が曲がる遺伝があるそうで、曽祖父は両手の親指が曲がっていたそうだ、自分は左手の小指が少しまがっていると。見せられた私は本当にぞっとした。これは又、うまく騙された。仲人も綺麗に騙された。生活も私と結婚する前はどん底生活だったらしい。大学を出て、ちゃんとした所に勤めていれば、こんな苦労はしなかっただろうが、私も愚痴ばかり零さず、どこかで働けばよかったかと、今では想う。当時は女が働くなど、考えられなかった。毎日毎日、の辛い事を親にも言えず、毎日宛名無しの手紙を書いて箪笥に仕舞っていた。或る日、父が来て、これからお宅と内は内々だから、何でも困った事があったら相談してくれと言ったが、姑は怒って「内の事はほっといてくれ」と言った。流石に穏かな父もがっかりしたようだった。それにも増して、自分の調べ方が悪かったために母にも責められ、ちえこを本当に可愛そうな目に合わせたと、悔し涙を流した事だろう。

東京えの憧憬

兵学校「海軍」を目的にして丸亀中学から東京の海城中学え転校していった弟は、早番、海軍将校となり、奏任官として、予の前に現れよう。体格の小柄な、軍人になれぬ予が、弟と同様、奏任官の資格を得るには、今の郵便局では到底望みは無い。それには、裁判官と言う道がまえに開かれている。現に予の知人がそれを証明しているのだ。これだ、これに向かって進むより他に道は無い。殊に、東京の伯父は弟だけを引き受けると言ったのではない。「子供達を田舎に埋もらすのは悪い、東京え寄越したらどうだ」と言ったのである。そこで予は裁判官を目的に、上京する事に腹を決めたのであった。

ここで、順序として、予等兄弟の上京に付いての動因を述べなければならない。祖父、完治、死去の三周忌に、東京の伯父夫妻と長女、ミツが帰省した。伯父は我が家の出世大将である。その大将が故郷え錦を飾って帰ってきたのであるから、伯父の妹である母の鼻は高い。それが、予等、子供達にも及んで毎日を賑やかに、楽しく過ごした。伯父は竹森家の長男である。普通ならば竹森の家を継ぎ、祖父母を扶養しなければならぬのであるが、伯父は分家をして東京に一家を建て、祖父母の扶養と祖先の祀りを総て予の母に任し切っていたのである。それには、次のような訳があった。

明治2年、当時の丸亀藩に大きな騒動が起きた。それは、当時、何処の藩にも起こったように、藩籍奉還を巡っての二つの争いであった。一つは時勢の将来を透見した一連で、この方面の人士は、明治政府の命ずるがままに藩籍を奉還せよ、廃刀もせよ、士族と平民が一緒になって朝廷の為に奉公をせよ、と言う。「これは、今で言う開進党である」それに対する別の一派は固陋派というもので、その言う所は薩、長の奴らが幕府を倒して、新たな幕府を作ったのが、明治政府である。それに支配せられて、数百年連綿として続いて来た藩籍を奉還することは、取りも直さず、薩、長に屈服することである。断じてこれを排撃せねばならぬ。ところが、開進党の方は文治派で、固陋派の方はいずれも武芸に達した武断派でった。そして、この一連は50人が結束して、文治派の方え猛烈に対抗したのである。それが次第次第に激化して遂に剣に物を言わして、勝敗を決せんとするまでに至った。文治派の棟梁は土肥大作を中心に、丸亀の中央にある土橋の見付座に集合して、何事かを協議していた時、それを予知した固陋派の50人は抜刀して文治派を襲撃したのである。かくと知った土居は、座の畳を上げて、その隙間に太刀をはさみ、火を消して、襲撃を防いだ。この争いで双方に十数人の死傷者がでた。その後、藩庁では双方の主脳者を捕らえて処分し、やっとこの騒ぎが終わったのである。これが、丸亀藩で有名な、「50人騒動」と言われている。

2006年9月26日 (火)

ちえこの結婚ー2

当時、浩は、東京帝大、経済学部を出て、第一生命保険の営業をやっていた。当時は、東大を出ても満足な就職口は少なかった。最初に、父がもう少し詳しく身上調査をしてくれていたら、私は、後に経験する大変な苦労をする事が無かったのではないか。でも、当時、父は、家では長男の結核による病死。職場では、青山会館の財政不足で随分悩んでいた。それは、父が最も信頼していた部下の伊藤が使い込みをして、金が足りない足りないといいつつ本人が芸者に入れあげ、大きな穴を空けていたことが発覚。私の縁談調査も、この伊藤に頼んでいたようで、本当に調べたかどうか、判ったものではない。姑は33歳で主人に死なれ、子供は長女、長男の二人、長女は帝室御料林の技師に嫁ぎ、東京では親一人、子一人の二人暮しであった。最初から私は嫌だといったのだが、父は浩の学歴に目が眩んだらしく、皆に説得されて、結婚を承諾した。次の日曜日に浩は家に来て、離れの座敷で机を挟んで、何も言わずに渋茶を飲んでいた事を覚えている。それから暫くして、浩から宮城道夫のお琴の演奏会が日本青年館であるからと、仲人を通じて切符をくれた。当日は仲人の梶のおばさんと浩と聞きに行った。数日して、姑から、梶の小母さんに「結婚前から二人で出歩くような女は、とんでもない」と言ってきた。小母さんは、私がついていって、二人だけでないし、切符も浩が買って寄越したのに、こんな事を言われる筋は無い、こんな難しい姑さんは御免蒙ると、仲人は止めたと言って来た。所が、父にして見れば、浩が悪い事をした訳ではないし、演奏会も二人で楽しんで来たのだから、むげに断る事も無いだろう。たった一人の母親だし、余り丈夫そうでもないし、当時姑は55歳、今と違ってうんと老けてみえたので、父が誤解したのも無理はない。私はもっと慎重にしたかったのに、当時住んでいた新宿、百人町の家にに、両親も私も行って見ないのに、結婚を急いだ。ましてや、姑が凄い宗教の信者であったとは、知る由もなかった。11月3日にお見合いして、12月25日に青山会館で挙式した。父は結納金を貰ったのか?ましてや、指輪や新婚旅行などとんでもない話であった。

2006年9月16日 (土)

観音寺郵便局の生活

大西君は三豊郡の出身で、戸祭君は、東三郎翁の後妻の甥で、丸亀船頭町の人であった。賀一さんは一応、郵便局の誰彼に予を引き合わせた後、引き続いて、翁の細君や、賀一さんの妻子、賀一さんの異母弟達に予を紹介し。それより予を導いて、広い庭を突っ切り、お酒の醸造所や、大きな酒樽の入っている酒倉を一巡するのだった。こんな所を見せられた予は、郵便局の方よりも、その大袈裟な構えに少なからず喫驚したのであった。その夜の事であった、予は賀一さんに誘われ大西君と共に、三架橋の袂にある瀟洒な料亭に招かれた。部屋は薄暗くじめじめしていたが、かねて賀一さんの馴染亭であるのか、料亭の誰彼は賀一さんの命ずるままに、いそいそと、良く立ち働くのであった。その内に酒肴が運ばれ、芸者もやって来て、座は次第に賑やかになって、夜の更けるのも忘れるほどであった。その際、賀一さんは「予に対する第一印象が頗る良かった。流石に戸川さんが推薦されただけある」などと言って「春は嬉や」の流行譜を歌い、大西君、亦酒をあおって義太夫の一節を語るなど、その朝、故郷を立って七里の道を、揺られ揺られして、着いた予とは思えぬ程落ち着いたのであった。料亭に上り、芸者に接したのは、これが始めてであった。かくて予は、いよいよ、観音寺郵便局の一局員となり、月給5円50銭を受ける事になり、一日を2階の電信室に、翌日は階下の郵便係りに、その明くる日は休養すると言う、3交代の勤務に就く事になった。5円50銭の月給は、予が始めて受けたものであった。その収入から、予は1円50銭を藤田家に食費として払い「これは、この局特有の優遇であった」50銭を東京の中等学校通信講義録用にあて、1円を弟の中等学校の学費として送り、残りを貯金と小ずかいに当てる事にした。1円50銭の食費「賄料」と言えば、ずいぶんひどい物の様であるが、実際は、大いに異なり、食事時に、拍子がかちかちと鳴ると、広い板の間に幾十の箱膳が並べられる。左から、翁、賀一さんと家族、次いで局員、醸造関係者、召使いと着席した。そして食べる物は、主人から召使まで同様であるから、予は勿論、誰一人として不平を並べる者はいない。それだけに1円50銭の食費は至廉なものと感銘したのであった。予はこの局にあること約半年であった。しかし、この僅か六ヶ月の生活が、予の将来に対し、少なからぬ色々な発明を寄進されたのである。その最も大きなものは、両親に対する思慕である。次には、生まれた土地に対する憧憬である。それから、上司にたいする気兼ね、同僚に対する善悪の分別、仕事に対する興味。こうしたことは、予にとって、生まれて初めて発見された物であっただけに、これらの事象が、永遠につきまとって、予をして「苦労人」らしくしてしまったのである。

2006年9月 6日 (水)

ちえこの結婚

昭和4年10月、私の結婚話が起こったのは、母の女学校の裁縫の先生の甥、藤本君は当時、青山学院に通っていた。彼は新宿の柏木町に住んでいて、その隣に、母親とその息子、内藤浩がいた。この内藤の話を藤本君の親戚である梶家に話した。梶のおばさんは早速、郁太郎に話を持ち込んだ。私は府立第八高女5年を卒業して、近くの剣持さんが経営する裁縫女学校「今の松陰女学校」に通っていた。父は当時青山にある青山会館の常務理事をしていた。その年の2月に両親が最も期待していた兄、かなめが肺病で死んだ。父母は始めてのショックに打ちのめされていた。昭和4年は不景気の最中で、白絣の浴衣が90銭だったが、中々買えなかった。梶のおばさんの娘、敏さんは、私と幼い時から一緒で、彼女は小母さんに似て、すこぶる美人、私は母に似てすこぶる不美人、何時も、心の中の劣等感を抑えるのに骨が折れた。何処かに行く時、迎えに敏さんが来て、顔を見ると、本当に惚れ惚れするほど綺麗なので、内心穏かではなかった。その敏さんは、青山学院を卒業すると、すぐに、結婚した。然し、結婚後の不幸な話を聞かされると、結婚は男の気持ちが大切で、お金が幾らあっても、本人がしっかりしていない人は駄目だと思う気持ちが強まった。内藤との話が始まって11月3日に明治神宮でお見合いをすることになった。私は黒地に大きな紅葉模様の綸子の着物に、茄子紺地に花模様の羽織を着て、梶の小母さんに連れられて出かけた。明治節には、田舎から来るお登りさんの行列で、ちょっと見ただけでは、綺麗な人はいなかったので安心した。参拝をすまして一寸離れた私に、浩はちえさんと呼んだ。その一言が、小母さんには、凄く気に入ったらしい。自分の娘の亭主は女たらしで、一言も敏さんとは呼ばなかったと言う。小母さんは浩のことを、せいがスラリとして、いい男だと、一人気に入っていた。帰りに父のいる青山会館により、白十字の食堂でご馳走になった。家に帰って、母にどうだったと聞かれたので、私は、首曲がりだから、嫌だ。と言った。梶の小母さんは、そんな事ないよ、とむきになって打ち消した。

2006年9月 5日 (火)

寒がり羊の家系図

初代ー郁太郎「1880年-1942年」ー新聞記者

       弟ー2人「海兵卒の海軍少将、アメリカ サクラメント大卒の電気技師」 

二代ー郁太郎長女 ちえこ「1909年ー」ー画伯

       兄弟ー5人、妹ー1人

三代ーちえこ長男 寒がり羊「1931-」-夢見る男

     昭和の初期は戦争の時代であった。妹ー1人。弟ー2人

2006年8月 4日 (金)

8月スケジュール

8月は23日までお休みします

2006年7月18日 (火)

世田谷の関東大震災「2」

Photo_base30007_1 父 無事に帰る : 母はジャガイモを買う : ちえこ

あくる日、午後の3時ごろ、父は自動車に乗って帰って来た。聞けば、京橋の新聞社、社屋で机の下に潜っていたら、天井が落ち、そこを何とかすり抜けて外に飛び出したそうだ。社員が大八車に、社の大事なものを積み、神田の駅まで来たら、中に大勢の人が逃げ込んでいた。辺りはみんな火に包まれていたので、そんな所にいると死んでしまうぞ、と怒鳴り、みんなを外に出したそうだ。母は地震のあと、直ぐに近所の八百屋に行って、ジャガイモを山のように買い込み、風呂場のたたきに積み上げた。この事で、後でどんなに助かったか分らない。なにしろ、食べ盛りの子供7人の9人家族。母の気転で三、四日とはいえ、お腹の足しになったのであった。

暫くして、浅草、吾妻橋の袂で寿司屋をしていた父の従兄弟が一家の他に、支店の家族共々、焼け出された25人が世田谷の家を目指して逃げてきた。うちだけでも大変なのに、母は本当に大変だったと思う。ガスは無いので、外にかまどを作ってお米を炊く用意をしていると、半鐘が打ち鳴らされて、消防団の人が逃げろ逃げろと怒鳴っている。外に出て街道を見ると、多摩川の方から荷物を担いだ人が大勢逃げて来るのが見えた。何でも、玉川で砂利取りしている朝鮮人が襲ってくると言う。さー大変だ、逃げねばならぬ。母は赤ん坊の妹を背におぶり、父を先頭に、吾妻橋の寿司屋25人もぞろぞろと付いていった。私は、とっさに1枚の毛布を持って後を追った。ちゃんとした道を通れば良いのに、父は目黒川を目指して、たんぼや畑のあぜ道を通ったので、肥やしだめに落ちたり、酷い事になった。顔見知りの人とも会うのだが、敵は見えず、何処に逃げたらよいのか、判らない。それでも歩いている内に、代沢小学校に逃げ込んだ。いり口の下駄箱の裏に隠れていた。一緒に逃げてきたよその旦那さんは、手に鉄瓶をぶら下げて、外を見張っていた。自分がなにを持っているのか、知っているのかしらと思った。やがて余震に脅かされながらも夜が来て、ひとまず、家に帰ろうと、外に出た。真っ暗な道を衛戍病院まで歩いた。病院の中には沢山の人が逃げていた。一息ついた皆はそこで腰を下ろした。私の持ってきた毛布を地べたに引いて、赤ん坊たちを寝かせた。本当に毛布一枚が役に立った。

2006年7月17日 (月)

朝鮮牛は何処に消えた?

ちえこの弟 「T]   私の子供の頃、東京の街中で見掛ける牛は、総て朝鮮牛でした。薄い黄土色をした朝鮮牛はホルスタインなどと比べると、はるかに小柄で、痩せており、角も申し訳に付けたように、貧弱でした。其の頃「大正初期」三軒茶屋から上町方面に向かう、現在の世田谷通りを私達は大山街道とよんでいました。道幅は現在の半分もありませんでしたが、若林当たりまでは両側に、民家や商店が軒を連ねており、三軒茶屋交差点の近くには島田市場と言う青物市場があって、朝早くから野菜を積んだ荷車が犇いていました。しかし、一日の内で大山街道が一番混雑するのは、何と言っても、朝夕の牛車の行列が通る時でした。牛車の行列は上町方面から現れて三軒茶屋を通り渋谷方面に向かい、帰りは逆のコースを取っていました。車の数は数十台に及び、車を引いている牛は総て朝鮮牛でした。世田谷村や駒沢村は勿論ですが、当時、東京の市内では、殆どの家の便所は汲み取りでした。牛車の行列は、毎日、市内の家庭の屎尿を汲み取って運搬していたのです。又、行きの車には空の肥樽の他に野菜を積んで、市内の家庭に売捌いていたようです。この頃、家の側にコー坊と言う2歳上の子供がいました。彼は札付きのワルで、餓鬼大将の見本でした。或る日、コー坊が、朝鮮牛を使って、今で言うロデオ遊びをしようと言い出しました。場所は藤田の原と呼んでいた、教学院の南側の原っぱでしようと言いました。私は冗談かと思っていたのですが、暫くして、コー坊は本当に牛を引っ張ってきたのです。子供たちが原っぱに集まると、こー坊は、大見得を切り、いきなり牛の背中に飛びつきましたが、最初は失敗しました。二回目も駄目、三回目でようやく背中にまたがりました。Photobase30021朝鮮牛は辛抱強く大人しい牛ですが、人間を背中に乗せたことが無い牛なので、いきなり後ろ足で土を蹴り上げので、あっという間にコー坊は叢に振り落とされてしまいました。コー坊は尾骶骨を強かに打ったとみえ、たおれたまま唸っていました。子供たちの中には、コー坊に続いて挑戦する予定の者もいたのですが、流石に、コー坊がやられたのを見ては、皆、尻込みしてしまいました。現在、東京では朝鮮牛を見ることは有りません。トラックの普及によって、牛車や馬車の必要が無くなり、あれほど沢山いた朝鮮牛は何処に消えたのでしょうか。朝鮮牛を殺して食べたと言う話は聞いた事が無いのですが。

  Photobase_30003 Photobase_30004                   最近中野で糞尿を煮て悪臭を撒き散らす男が逮捕されましたが、昔の朝夕の汲み取り車の行列の臭いはどの程度で有ったのかと、思いを廻らしました。

2006年7月13日 (木)

大正12年の関東大震災

二代 ちえこが驚いた大地震「1」

1923年に私が味わった、大地震は、今でも、はっきりと、覚えている。平素から地震嫌いの私は、9月1日始業式から帰って、母の作るお昼の、干物の鯵が焼けるのを待ちながら、兄や弟と学校の話をしていた。すると、突然の地震で、皆、庭に飛び降りた。私は、白地に紺で大きな花模様の入った浴衣を着ていた。庭の築山に植えられた大きな躑躅の枝に袖が引っ掛かり、片袖がとれたまま地の上を這い回った。母は妹を抱いて、縁側の柱に掴まって立っていた。ちょっと揺れが収まったが、直ぐにゆり戻しが来て、家の瓦が一間ぐらい飛び上がってガシャンガシャンと落ちてきた。母も縁側を飛び降りて、裏の広い空き地に逃げた。大きな桜の木が何本もあり、見上げるような金木犀の木もあった。家の門の前にある広い原っぱに近所の人も、集まって来た。西の方角の空に大きな入道雲がムクムクと上がりだした。普段は富士山が良く見えていたのに、白い雲に覆われて、皆は富士山が爆発したのではないかと言い合った。絶え間なく襲って来る地震に、草の葉を掴んでトトト、、、とお経をあげている人もいた。病人や老人は戸板に乗せて、空き地に運んだ。皆、不安の群集心理で人の集まっている所に居たいのだと思った。様子を見て、お腹が空いたので、食べ物を取りに家に帰ったが折角、母が沢山の鯵を焼いたのに、お膳の上には何も無かった。全部、近所の猫に食べられてしまった。夜になっても揺れが収まらないので、桜の木と木の間に蚊帳を吊って、ゴザを引き、寝る事にした。夜になっても、引っ切り無しに町の消防団の人が来て、何時にもっと大きな地震が来るとか、山本内閣が総辞職したとか、色々ふれて廻った。隣の梶のおばさんは、日比谷公園の市電で地震にあい、泣きながら家まで駆けてきたそうだ。夜になって東京中空が真っ赤になり、火が燃え出した様だった。揺れる大地で眠れぬ一夜を明かしたあくる日は、世田谷の上空まで黒い雲が立ち込め、其の中を真っ黒な顔をした人がどんどん逃げてきた。東京はどうなったと聞くと、皆駄目だと言うので、初めて、父は如何しているだろうと心配になった。

2006年7月10日 (月)

ちえこの『野に咲く花の押し花」

        ちえこの水彩画と布絵Photobase_30001 Photobase_30008 Photobase_30009        名も無い道端に咲く野草、誰にも、見向きもされない、切られても、折られても、むしられても、おこりもせず、直ぐに、あとから、あとから、葉が出て、花が咲く。こんな花が私は大好きだ。悪い事だとは思うが、散歩の途中、何時も、花をむしってきて、ティッシュに挟み電話帳に挟み込み、忘れた頃に取り出すと、綺麗に乾いて、面白い形をしている。これを色紙に貼って、絵を描くときの参考にすると、これがすこぶる面白い。小さな花でも、紙の余白、絵の強弱、バランス、奥行き、等々であらゆる事を学ぶ事が出来る。今日は、朝顔を押した。忘れた頃、どんなになっているか、楽しみだ。

2006年7月 3日 (月)

銀細工屋の郁さんであってはならぬ

郵便局に採用された友人

この当時予の家にしばしば立ち寄っていた人の中に、小松と言う人がいた。この人は予よりも数歳の年嵩であったが、商売は屑やで、毎日朝早くから天秤棒を担いで街中を歩くのであった。しかし、この男は、非常に感心な人で、何時も懐に漢籍をいれ、商売の暇には、必ずそれを読んでいたので、評判となり、予の両親は大いに関心を抱き、常に予等兄弟に対し「あんな風に勉強しなければならぬ。あの男は将来、立派に出世するだろう」と引き合いに出して激励せられたので、予は彼に近ずき、仲良しになった。果たして、彼は郵便局の吏員採用試験にパスし、この間まで天秤棒を担いだ屑やさんが、一躍、郵便局のお役人になったので、又しても、町中の評判になったのである。小松さんは多度津の郵便局、大阪の郵便局、に転勤し、判任官に出世された。予が後年、東京の苦学に耐えることが出来たのも、小松さんのお蔭かも知れない。予の父は銀細工を作っていた。銀細工と言うのは、東京で言う飾り職で、銀の板、真鍮の板金を仕入れて来て、櫛、笄、簪などを作るのである。だから家の表に面した所に仕事場があって、そこに父は終日、座ったまま、それらの物を作るのであった。学校から帰ると、忙しい時は、何時も炭磨ぎをやらされた。父があらかた作り上げた簪や笄を固い炭で、表面が鏡の様に滑らかになるまで、こするのである。冬の寒い日などは冷たい水に木炭を漬けて一生懸命にこするので、指や手が、赤く腫れあがるのであった。父の仕事の注文先は、通り町の綱屋と言う装飾品店で、そこには、小柄で人の良い長さんと言う老人が良く来て、父と親戚付き合いをしていた。長さんは、小箱を風呂敷で首に引っ掛け、かいがいしい脚絆がけで、在郷を巡回し、あちらこちらから、色々の注文を引き受けてくるのだった。我が家は片側町であるため極めて、人通りも少なく、それ故、何時かは表通りの商家の多い所に行きたいと、両親は思っていた。其の頃、予も、心密かに、父の後を継いで、「銀細工屋の郁さん」であってはならぬ。何とかして、もっと立派な人間になって、家名を興さなければと、それとなく心を引き締めていたのであつた。

2006年6月27日 (火)

友愛会の設立 19世紀の少年、あー頼もしい

初代 郁太郎の友達は、、、

どうしたわけか、予の町内には、同年齢の学友はいなかった。汐入川を隔てて向こうに、後に親戚になる梶完治がいた。梶は幼年時から秀才で、眉目秀麗、8歳で、すでに四書を暗誦していた。土居というところには三野熊雄がいた、丸亀では有数の富豪の子息で、その広大な家は、連隊長でなければ借り得ないと言う程、立派であった。予の裏の鉄砲町には、父親が陸軍大尉の永野義元、先生の息子の渡辺豊、傘商の父を持った吉田幸太郎、そして中でも一番親しかったのは萱町の長谷川等と円光寺町の浜田伊三雄で、長谷川は丸亀地方裁判所で鬼検事と恐れられていた長谷川和愛と言う人の養子で、生地が高知県のせいか、其の言葉ははっきりとして、又、姿態もどこかきびきびとして、見るからに剛健のようであった。予はしばしば彼の宅を訪ねた。彼もまた予の宅にきた。そして、

継母の厳格すぎる不平を、予の母に訴えるので、母もまた、心から同情を寄せ、我が子同様、親切に待遇した為、終いには、自家で涙するような事があったら、慈母に訴えるように駆けつけるのが常であった。彼の部屋は玄関を入った右側の一室で、そこには教科書の他に、色々の雑誌があった。予は彼を訪ねる度に、小国民と言う雑誌を読みふけるのが常であった。予が将来、新聞記者になり、文学的興味を持つ様になったのは、この時の小国民耽読が与った様な気がする。惜しい事に、彼は高等小学校在学中に肺病に罹り、墳墓に眠ってしまった。今一人の親友、浜田は多度津の生まれで、父親は高極藩

「丸亀藩の分家」の目明しであったが、事志と違い、丸亀に移り、一家で籤細工をしていた。当時予は友人達より幾らかマセていたとみえ、皆から比較的に敬重され、よい意味での餓鬼大将であった。成績が上々でもなく、家に金が有ると言うのではないが、多くの学友は常に予に集まり、予の指示に盲従するのだった。そうした事から、予を会長として友愛会と言う組織が作られたのである。メンバーには前記の友人達と遠くから十数名が参加し、毎週日曜日、会員の宅を順番に廻って演説をするのである。演説と言っても、座敷や応接室を使うのではなく、玄関や庭先に机を持ち出して、道を歩く人々に向かって、いはゆる大道演説をするのである。今考えると、随分大胆な仕組みであったと思う。会長である予は藤田と言う古本屋から買ってきた演説集から一説、一説を予め暗記し、手をふり

胸をそらして演説をする。予が得意にしていたのは「案山子の説」と「雄弁論」で、これを演説すると、いつも沸くが如く喝采を博したのである。或る夕暮れ、当番である永野の家で会が開かれた、玄関にランプを吊るし、机とみかん箱を持ち出して、会員が代わる代わる演説を始めた。そうした事は丸亀ではなかった事であったので、大人も子供も非常に珍しがり、見る見るうちに門前市をなす盛況であった。そして下手な演説をすると、時々半畳や野次が飛び出し、小さい講師が顔を赤らめ、頭を掻いて引き下がると、観客に笑殺される事もあった。予は会長であるというので、最後に引き出された、得意である雄弁論を一席やると、突如、何処からともなく大音声で「19世紀の少年 あーー頼もしい」と多少の節をつけた声が聞こえると、暗闇の中の聴衆から急霰のような拍手が起こった。この声がどれだけ我々会員を力ずけてくれたものか。一同は気色満面、アー愉快だ、面白いと、会は益々発展したのである。

2006年6月25日 (日)

第八女学校え入学

二代目 ちえこ

我が家も、五男二女、親戚の梶家も、二男二女、の大家族となった。ゆえに、長女の私が女学校え進学する事は、費用の事を考えても、子供心には大変なことであった。6年生になると、受け持ちの先生は九州から来た、農沢大九郎と言う勇ましい名前の先生だった。授業熱心で、出来ない生徒には白墨を投げつけたり、体操着を忘れた子供には、すぐに家にとりに帰らせてから,1時間も校庭を走らせたり、皆、蔭ではぶつぶつと怒っていた。私だけは、何時もニコニコしていたので先生の気に入っていたらしく、渋谷の宮益坂にある下宿に、勉強に通って、つるかめ算の厚い問題集を一生懸命に勉強した。当時は群立で、やがて府立になる第八高女は月謝が4円だった。大勢の子供がいる両親は、娘が安い公立に行って欲しいのは当然であろう。荏原小では5人の人が受験した。試験はメンタルテスト、又、ある形の中に絵を入れたり、裁縫の運針の試験では、決められた時間で、如何に、手ぬぐいに赤い糸で沢山縫えるかと言うテストであった。しばらくして、入学の発表があり、梶家の敏子さんだけが落ちた。私は一生懸命に慰めて、両親に、何と言ったら良いか、二人で相談しながら帰った。その後、敏子さんは青山女学院の補欠を受けて、無事に入学した。私立の青山は月謝が6円だった。私は毎日、渋谷まで玉電、山手線で品川駅で乗り換え、大井町で下車、5分歩いて学校に着いた。第八高女には当時、小説家の北村透谷の未亡人「英語」、詩人、佐藤春夫の弟の大鹿卓先生、他、文学的な先生がいっぱい、いらした。東京の他の女学校より、校則が厳しかったように思う。昔も今も、女の心情は同じで、誰でも、人よりは美しくありたいと願っている。一人がやり出すと皆がすぐに真似をする。着るものは、着物の上に袴を着け、バンドを締める。木綿袖の長さは1尺、靴下は黒、頭の髪はマーガレット、それも首の所に着く長さに決められ、長い時は後ろに丸める。所がその時、パサッとおかっぱに切った人が現れ、皆びっくり仰天したものだ。卒業間じかの5年生になって、袖の長さを長くしてくれと皆で談判しにいったけれど聞いてくれなかった。丁度其の頃、木綿でも、藤紫とか、色々な柄の着物が出てきた。新銘仙と言う木綿に他の糸を混ぜた着物が出てきて、先生たちは判定に困ったらしく、次の年からは殆ど洋服になった。一週間に一回、担任の先生が教室に入り、生徒のカバンや、机のなかを点検した。ラブレターが見つかったり、私のように先生の似顔絵を描いたのが見つかったりすると、本当に恥ずかしかった。朝礼の時、物差しを持って、着物の袖丈を測る先生もいたが、今考えても、どうして長くしてはいけないのか、判らない。帰りに渋谷で会う東洋英和女学校のお嬢様は、銘仙の長い袖をきれいに、長襦袢のふりを揃え胸高に袴をはいて、それはそれはきれいだった。較べて、私の着ている絣の木綿の着物では何時も、隠れるようにこそこそと、玉電に乗っていた。でも。それだけ喧しい校則の5年の教育のお蔭で虚栄心が無くなり、友達は皆、質素な生活をする人が多かったと思う。

2006年6月20日 (火)

大正時代の子供の天国

ちえこの弟 T が遊んだ弁天堰「せき」

大正の初めの頃ですが、今の太子堂二丁目から四丁目にかけての北側崖下を、烏山用水と言う川が清冽な水を湛えて流れていました。現在の太子堂三丁目から五丁目に至る、用水北側の低地は、太子堂八幡様の森の際まで、一面の水田でした。烏山用水は、井の頭方面が水源で、三宿、池尻の北側を流れて、代田方面から来た北沢用水と合流し一本の川となって目黒に行きます。昔、用水には、随所に堰が設けられていました。堰といっても、都会育ちのこどもには、ぴんとこないでしょうが、木造の小さなダムの様なものです。従って、堰の上流には、いつも満々と水が貯えられ、溢れた水が滝となって激しい水音を立てていました。堰によっては、水田の感慨だけではなく、滝を利用して水車を回して、脱穀や小さな工場の動力に使っていました。又、これらの堰にはそれぞれ名前が付けられていました。若林駅の近所は天神橋、中堰、バリウム堰、弁天堰、黒ん坊水車、

なんと言っても有名なのは、弁天堰でした。そこが当時の子供たちの水浴場として、最も良い条件に恵まれていたからで、夏休み中、終日、子供達の歓声が聞こえていました。

夏の弁天堰は子供達のメッカだったのです。私達は教学院の墓地の周りの麦畑を突っ切り、雑草のおいしげった3メートル余りの崖をおっかなびっくり、降りて弁天堰に通いました。崖の下には大きな胡桃の木が一本あって、その横に小さな弁天様の祠がたっていました。弁天堰は幅4メートル、高さは2メートル位、両端の擁壁と舗床部はコンクリート造りで、堰の上には30センチの丸太が懸けられ、手摺もついていました。当時、堰には管理員がいて、大雨の時など、水量の調節に当たっていたようです。子供達は付近の草原の上に着物を脱ぎ捨てて、朝早くから夕方まで思う存分水遊びをして楽しみました。

2006年6月16日 (金)

四国で一流の漢学者、中村先生

中村先生は、通称正蔵、桑字は子楡、後に三焦と号じた。

丸亀藩士、弥門の五子、三歳の時、父を喪い、後、僧侶になるが、読書を好んで、呪梵を厭うので、僧籍を離脱して儒学を志す。筑前にある亀井照陽の門弟となり、又、帆足愚亭に師すること七年にして、帰国。嘉永二年、藩の儒員に挙げられ、藩学正明館の副助教、兼、詩文係となった。文久三年、世子の侍講、正明館の教授となったが、故あって藩学を去る。明治四年、廃藩の令が下り、同五年、学制頒布と共に、小学教師となるが二十一年、退職、私塾を開いて、多数の師弟を教育されたのである。予は妹尾先生の言われるがまま、先生の丁寧な紹介状を持って、土居の中村先生をお尋ねした。先生のお宅は晴気楼といって、亀山城の外濠に面してをり、門口には三抱えもある老松が濠の水に影を映していた。予は、その日は特に袴と新しい羽織をつけ、子供心にも、威儀を正して訪問したのであった。その時の先生は童顔に白髪、特に長い顎鬚がふさふさと垂れていたのが、如何にも、豪い先生であった様に、今なお記憶に残っている。先生は紹介状を読みながら、「あんたか、大分、学問が上達したようだね、結構、結構。しっかり、おやんなさいよ、漢文は読むだけではいかん。良くその意味をかみこなさなければならん。老人、これから、ボツボツ見てあげよう。来なさい、来なさい」こんな事を言われた様に覚えている。しかし。これから通うことになった時、先生は病気に罹り、残念ながら、先生の訃報に接したのであった。予は妹尾先生につっぱなされ、中村先生に逝かれ、結局、妹尾先生に教わっただけの漢文で、一生を賄うことになったのである。今、思い出しても、残念千万の事と思う。予は、昼間は南条町の高等小学校に通い、夜、夕食を済ますと、同じ南条町にある亀陽学舎に通った。学舎は、今日で言う上級学校えの予備教育をほどこす所であって、そこの先生は、いずれも小学校の先生であった。予は大岡先生に数学を、片桐先生に英語をならったが、どちらかといえば、英語に重点をおいたので、教科書のナショナルリーダー第一から、代四まで、何時のまにか習得したのである。この様にして、朝は未明から、夜は10時頃まで休む暇もなく勉強したので、自分なりにかなり教養が出来たように感じたが、それでも、なお向学心を満足させる事ができず、日曜日の如きは、態々、有名な先生を坂出や多度津あたりまで、訪問して質疑、応答を聞く事もしばしばであった。こうした関係で、面白いことには、履物が直ぐに壊れるのである。竹皮の草履は

一週間、朴歯の下駄は半月、流石の父も、これではかなわんと、ある日、母の縫った鼻緒の芯に針金を捩って入れてすげかえたのである。それを履いた予は僅か二日にして足から血を出し、翌日からは下駄も草履も履けぬ傷を拵えてしまったので、この迷案である

鉄芯の鼻緒は、元の鼻緒に変わったのであった。如何に予が毎日、よく歩いたか、之によっても知られるであろう。

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2006年6月10日 (土)

明治の母から聞いた昔話

二代 ちえこ 「母の思い出」

私の母は働き者で、五男二女の着る絣の着物、袴の洗い張りから仕立まで、総てをこなし、夕食が済むと、子供たちを集めて、色々なお話や色々な歌を歌ってくれた。父もまた

子煩悩で、月給が出ると子供達に本を一冊と帳面と鉛筆を買ってくれた。日曜日に母と子供たちが外出して夕方に帰ると、父は食卓に山のようにてんぷらを作ってまっていた。

母も忙しいので、父も勤めの合い間を縫って、子供たちの世話をした。八畳二間の部屋にいっぱい布団を敷くのも父の役目、夜中に布団をはぐっているのを見回って布団を掛け直すのも父のお役目だった。ご飯を食べ、それぞれの勉強がおわって、寝る時間になると、皆が布団にもぐって、こわごわと母の話を聞くのだった。

蜘蛛のお嫁さん

昔々、けちな男がいた。お嫁さんを貰いたいが食べさすのが嫌だ。何とか、ごはんを食べないお嫁さんがいないものかと、広告を出した。毎日色々な女の人が訪ねてきたが、全然食べない人はいなかった。ところが、ある日、訪ねてきた女は、私は全然ご飯を食べませんと言う。そこで、しばらく家に入れてみたが、ご飯は食べなかった。ところが、米びつの米は毎日、だんだんと減っていく。男はある日、外出と見せて、家の窓から様子を見ていた。女は、見られているとも知らず、頭の髪をざんばらにして、米びつからはかりの入れ物で米を掬ってざーざーと頭の上から入れ始めた。男はそれを見て、腰が抜けるほどびっくりしたが、そ知らぬ顔をして家に帰り、女にそろそろ、お里に帰って来たらと薦めた。お土産を持たして、女を送り出した後から、男は後をつけて行った。夏の日に照らされて暑いのか、女は大きな木の根っこに腰を下ろして休んだ。すると、向こうの方から、ごそごそと小さな蜘蛛の子が、ぞろぞろと母親を迎えにやってきた。男は、またもやびっくり仰天、大きな声を出す所だった。蜘蛛は頭の上の口から食物を食べると言う。男は人間の女に化けた蜘蛛の母親に恐れ入って逃げ出したとさ。

山姥の話

昔々、ある所に、海で取れたお魚に塩をして、峠を越えて、隣村まで売りに行く男がいた。

男は大八車にいっぱいお魚を積み、峠の坂道を登りだした。しばらく行くと、おーいと言って、髪振り乱したお婆さんが追っかけて来た。魚をよこせと怒鳴っている、見ると山姥だ。

男は恐くなり、魚を一匹放り投げた。又、しばらく行くと、追っ駆けて来て、大声で魚をよこせと言う。とうとう峠の上に来た時は、魚が一匹も無くなっていた。山姥が魚をむしゃむしゃと食べている間に男は空の車を坂下に走らせた。一軒の大きな家に逃げ込み、二階に隠れたが、その家は山姥の家で、暫くすると、山姥が、あーー疲れたと言いながら、帰ってきた。山姥は久しぶりに、魚でお腹がいっぱいだと言いながら、大きな釜に水を入れてかまどの火をつけた。二階で様子を見ていた男はお婆さんを釜の中に放り投げて、蓋を閉め、錘を載せた。山姥のお婆さんは段々熱くなる釜の中から、早く出せと怒鳴りだした。

男は今のうちとばかり、一目散に坂を転がり、くわばら、くわばら、と逃げていったとさ。

2006年6月 8日 (木)

高等小学校に入学

初代 郁太郎のお勉強の内容は?

予は小学校を卒業して、南條町にある高等小学校え通う事になった。当時の校長は吉田喜代治と言う先生で、予の家の並びにある武川さんの弟であった。この校長は、丸亀の学校教員中の最古参で温厚、篤実「とくじつ」、生徒は勿論、父兄からも、ひどく崇敬「すうけい」せられていた。家から南條町までは、子供にとっては、かなりの距離であった。予は毎朝、母の縫ってくれた袴をはき藁ぞうりをつっかけて通学した。この頃、予の父は今で言うアクセサリー「金銀細工」の製作をしていたが明治以後世相の変化で注文が減り、家計は極端に窮迫していた。それ故に、予と弟の学校通いつき、母が知り人に会うと、子供二人の学校通いで、骨が折れますと、何時もこぼしていた。予は或る時、一冊幾銭かの読本さえ買うことが出来ず、友人から借り受けてきて、夜遅くまで、引き写しをし、それを学校で用い、其れに気ずいた先生は、挿絵が本物と変わらずに描かれている、と言って褒められたことを覚えている。当時の授業料は、一ヶ月二銭五厘であった。しかし両親も、予ら兄弟も、貧乏人らしい振る舞いはせず、あくまで、ぼろを外に見せず、いつも家庭は、明朗に、外界えの義理をいっさい欠かさず、予らも又、元気に、溌剌として修学を続けたのである。しかも両親は、それに満足せず、予ら兄弟を一角の偉いものにしたいと言う欲望から、朝は妹尾隆次郎と言う漢学の先生について漢書を、夜は亀陽学舎と言う補修塾で英語と数学を習ったのである。妹尾先生は、幼年の時、炬燵の火で火傷を受けて終生足が悪かったが漢学の素養は相当なもので、予は友人の吉田と言う米屋の倅とともに毎朝5時ごろ、門口で、先生が開門するのを待って飛び込み、教えを受けるのが常であった。予が最初に教わったのが、日本外史で、それは、貧乏な我が家では到底購うことは出来ないので、藤田と言う古本屋から損料で借り受けたのである。いつしか日本外史24巻全部を読み終わってしまった。次は日本政記であるが、この本が無い。先生は態々父を訪ねられ「ご子息の上達は驚くべきものがある、是非私の知っている総てを教えたい。あなたの方で、この本を見付けて貰えないか」と相談されたのである。予の父にそうした才覚が有ろうはずも無く、頗る当惑したのである。しばらくして、ふたたび妹尾先生が見えられ、「やっと私の学校の書庫からみつけましたから、これで教えましょう」と言ってくれた。父と予は飛び上がらんばかりに喜んだのであった。それから、先生の好意によって、日本政記を習得、続いて論語、孟子、中庸、さらに国史略、十八誌略、春秋左伝に及んだ時、先生は「もう大分教えたが、これからはもっと難しくなるから、土居の中村先生に紹介するから、そちらえ行ったらどうか」と言われたのであった。

2006年6月 7日 (水)

月に一度のお縁日

二代  ちえこ

月に一度のお縁日の日は明るく賑やかであった。親戚で近所に住む梶のおばさんは何時も丸髷を結っていたので頭の上は丸はげであった。お寺の境内を出た道の向こう側は駒沢村で、細い路地の左側に髪結いの小母さんが住んでいて、何時も黒い前掛けをして、黒い風呂敷を抱えて梶家にやってくる。そこにきよちゃんと言う、きれいな娘が一人いて、いつも三味線の稽古をポツンポツンとしていた。踊りも上手で、お縁日に出来る舞台でいつも男踊りをおどった。他にはよく中国の見世物がやって来て人形の首や手をきったりする

恐い見世物だった。年毎に世田谷村の縁日も人が多くなり、家の数も増えてきた。家の高窓から見えていた富士山も何時しか見えなくなった。「世田谷村の発展は田畑山林たちまちに店、住宅に早代わり、昔の面影更になし」と町になったお祝いに旗を振って、皆で歌って歩いた。日曜日には太子堂にある佛教会に行って、お坊さんのお話と甘茶をご馳走になった。「昔も昔、三千年、花咲き匂う春八日、響き渡った一声は天にも地にも我一人、

立派な国に生まれいで、富も位もありながら一人お城を抜け出でて、山にこもりし十二年」とお釈迦様の歌を歌った。帰りに桜吹雪になると、母から縫い針を借りて、梶の敏子さんと桜の花びらを針で通して首飾りを作った。丁度外人さんが子供を連れて通ったので、差上げると、大喜びして帰った。数年経ってきよちゃんが、喜劇俳優のヱノケンさんと結婚したと言ううわさが流れた。戦後、きよちゃんに手紙を出して、雪谷のお宅を訪ねた。大きな家で、きよちゃんは愛想良く迎えてくれた。紺がすりの単衣に朱の帯をきちんと結び、大家の奥様のようであった。やがて主人に会わすと二階に連れて行かれ、鬼のような大きな顔のヱノケンさんに紹介された。一人息子の坊ちゃんも来て丁寧に挨拶されたのでびっくりした。きよちゃんが言うのに、毎日好きで、紅生姜ばかり食べるので、学校の先生からお前の母親は継母じゃないのかと言われたそうだ。お昼で、お鮨をご馳走になり、難しい芸能界のお話を聞かされたのだった。

2006年6月 6日 (火)

世田谷の玉電と人力車

ちえこの弟「T」

私達の家族が東京渋谷の隠田から世田谷村の太子堂に住み着くようになったのは、大正の初め、1915年頃ですが玉電は既に渋谷から二子玉川まで開通していて、三軒茶屋

界隈は今日同様、世田谷で一番賑やかな盛り場でした。現在の下高井戸線の乗り場付近に、当時は人力車夫の溜まり場があって朝早くから数台の人力車が客待ちをしていました。当時はまだ読み書きの出来ない人もいたようで、中年の車夫達が頭の禿げ上がった親方を真ん中に、車座で取り囲み、親方が読み上げる新聞記事を熱心に聴いている光景が思い出されます。この親方は何時も新聞を読むとき、頭を小刻みに振る癖がありましたので、私達は首振り車屋と呼んでいました。当時、上町方面に向かう大山街道沿いにも

一人で車屋を開業している人がいました、今で言えば、個人タクシーですね。その親父さんは60位の大男でしたが、走る事が滅法遅いので、近所ではヨボヨボ車と言って馬鹿にしていました。しかし、私にとっては、彼は命の恩人なのでした。私は数え年7歳の時、ジフテリアと言う恐ろしい伝染病に罹り、九死に一生を得た事がありました。彼の車は、一刻を争う状態の私と父親を乗せて、暗闇の街道を病院迄突っ走り、救急車の役割を果たしてくれたのです。玉電の開通は、当時の世田谷村や駒沢村の発展には、大きな役割を果たしたのですが、上記のような車屋家業には深刻な打撃をあたえました。数年を経たずして界隈から消えてゆきました。玉電は元々多摩川の砂利を市内に運ぶために敷設されたので、渋谷、三軒茶屋間は複線でしたが、三軒茶屋から先は単線でした。当時の二子玉川には広い砂利の集積場があり、トロッコによる運搬施設が出来ており、一日に数回貨物専用の電車が砂利を満載して街中を走っていました。この頃の道路は市内も郊外も殆ど砂利道で、砂利の需要は大きかったのです。当時の乗客は少ないため、三軒茶屋で折り返すので、車掌がいちいち降りて、ポールの向きを変えるのでした。渋谷から乗る乗客は殆ど知り合いか、知り合いでなくても、何処そこの誰と言うことが判ったといわれていました。

2006年6月 5日 (月)

明治の香川県丸亀の小学生

当時、丸亀には東西に分けて二つの小学校が新築された。予ら数十名の男女生徒は、雨の中を雨傘をさして、れいの文庫を肩に背負い、列を作って新校舎に移ったときは夕方であった。元来予は幼年時代から、祖父に全愛を以って育てられたのと、俗に言う総領の甚六らしい所があったので、幼時から心優しい方で、友達の如きは男の子よりは、むしろ女の方が多かったのであった。或る時、予は学校えの途中で、悪童連中から散々苛められたのに怯え、白子と言う汐入川の部落の子供と遊び過ごし、学校が終わった時を見計らって、持っている草紙を川水で濡らし、さも草紙で勉強をして来た様につくろい、平気な顔をして帰った。然るに、そのつくろいは、友達が密告していたので、父親の憤懣は大変なものであった。予が帰宅するやいなや、飛び付くように予を引き据え、大きな手を以って予の首筋をうんと言うほど叩き、窘めたのである。然るに、その夜から予の全身は、恐ろしく腫れあがり猛烈に発熱したのである。予の幼児に似合わぬ、念入りの欺瞞に驚いた父の憤懣は無理の無いことではあったが、そのたしなめ方が効きすぎたので、両親の驚きは一方ではなく、医者だ、薬だと散々手を尽くした様であった。然し、翌くる日も、翌くる日も腫れの引く様子が無く、ついには之がために死んで行くのではないかと迄憂慮される様になった。そこで父は人の薦めによって丸亀から一里あまり、柊岡村にいる名医に診て貰うことになり、親戚にあたる啓次郎と言う男が予を背負い、毎日通った。一週間でやっと腫れが引き,全快を見るにいたった。その時の心配は80歳をすぐる父から、今なお語り草となるほど、大きな出来事であった。予は幼年から、絵を描く事が得意であった。

そして如何に気難しい際でも、絵の具か色鉛筆をもたしておけば極めておとなしくなるので、父はそれらの物を常に机の引き出しに、秘めておったようである。学校では絵にかぎって、先輩や上級生のそれをしのぎ、春、秋の展覧会には何時も一等賞の札が掛り、教員室にも額に入れて飾られていた。中でも、予が土器川から見た讃岐富士のスケッチは天稟の出来であると言うので、全校生徒に回覧せしめ、受け持ちの先生が、態々賞品を持って父を訪ねて来た事もあったのである。

meiji

2006年5月24日 (水)

東京世田谷三軒茶屋の昔

明治男の文章は肩が懲りますね。お口直しに二代、ちえこ少女時代にスリップします。ちえこは5男2女の長女として麻布の桜田町で明治42年生まれ、大正3年、世田谷三軒茶屋に家を建て、移りました。

おばけ

わたしは幼児から三軒茶屋から大山街道を2丁ほどいったところにある天台宗教学院の参道の側で育った。父が国民新聞の記者で、50坪ほどの土地に家をたてたからだ。

お寺の参道は参道は街道から300メートルもあろうか。両側は桜とヒバの木が交互に植えられ春は桜のトンネル、夏は涼しい木陰が出来、子供たちの何よりの遊び場であった。

お寺には正面にあるお堂の中で、お不動様が青い目で睨んで立っていた。このお不動さんは東京の五色不動の一つで、目黒不動、目白不動、目黄不動、目赤不動、とあるらしい。小学校は三宿にある第二荏原小学校まで歩いて通った。途中は見渡す限り畑や草原で、学校が終わると、いつも一年先輩の友達とお化けの話をしながら帰るのだった。

お寺の参道は電灯もなく、夜は本当に真っ暗で、鼻をつままれてもわからないのだ。

これは彼女の話だが、ある日、ぱっと外に出ると闇の中に、見上げるような大入道が立って睨んだとか、或る時は、頭が無くてズボンと足だけが歩いていたとか。

或る晩一軒おいて住んでいた親戚のおじさん、彼は退役した軍人さんだったが、凄くおとなしい人だった。夜中に便所「別棟」に行ったら、戸が開かない、中にお化けがいて、扉を押さえていると言う。叔母さんの急報で、父はオットリ刀で棒を担いで飛んでいった。結局

最初のお化けは、猫か狸の仕業だろうと落ちがついたが。父はお化けの絵やお話が本当に上手だった。上野の寛永寺の裏の墓地で迷子になって困っていると、赤い衣を着たお坊さんがいたので、肩をたたいて道を聞いたら、こちらを振り向いたら、、、のっぺらぼう

だったとか、面白おかしく聞かされる話を私達兄妹はおっかなびっくり聞いたものだった。

2006年5月17日 (水)

激動の年月を生きた家族の物語

初代:竹森郁太郎「1880ー1943」国民新聞社員「社長 徳富蘇峰」

二代:郁太郎長女ちえこ「1909-」日曜画家 3代「1931-」デザイナー

生活した土地:香川県丸亀市:東京市世田谷村三軒茶屋:渋谷区隠田:原宿「神宮前」:愛媛県松山市:北海道函館市:桧山郡江差町

予は明治13年2月丸亀市風袋町に生まれた。この年は大正天皇がご生誕遊ばされた翌くる年であって、西南戦争が終わって3年目、自由民権を唱導した板垣退助が自由党を創設した年であるから、国内多難、日本はこれからどうなっていくのかと言う心配な空気が全国に漲っていたのである。勿論、生まれたばかりの予が、そうした事情を知ろう筈もないが、そうした雰囲気の裡に予が呱々の声を上げた事だけを記しておく。

予の家は風袋町の東寄り、土提の丁にあり、土提の上には10数株の老松が亭々と生い繁り、昔の城濠をまざまざと残していた。家は町の中央に位置し朝夕、老松を透かして

真正面に陶山「土器山』、やや南に寄って讃岐富士の飯野山に相対していた。

家の作りは、この辺りに多い士族屋敷のそれであった。入り口に屋根付の門があり、入ると内門まで踏み石が並び、右の板塀に覆い被さるように枝ぶりの美しい老松が立っていた。間取りは広くはないが、比較的に良く出来ていて、住み心地は案外良かったのである

殊に裏庭が広く、そこには棗、杏などの果樹植えられていたので、我ら子供たちを喜ばしたのである。予の生まれた時は父母と母の父との3人暮らしであったから、予が生まれて

両親よりも、むしろ祖父の喜びが大変で、目の中に入れても痛くない程可愛がったそうである。3年して弟郁夫が、又3年して末弟の光が生まれた。予の住んでいた家の近くに専念寺という寺があり、祖父はいつも予を抱き、予を背負い、予の手をひいてお寺の内庭

につれて行って遊ばせるのが常であった。そして予が階段をよちよち登り欄干をつたって遊ぶのを、祖父は嬉しそうに、屈んで眺めるのが例であった。

ここで順序として家の付近を書いてみよう。南から、武川利作、中村嘉吉、梶弥一、落合庄次郎、杉山伝内、橋野万蔵、西岡某、磯崎某、田辺某、が居住していた。武川さんは薪炭商で、男が2人、中村さんは大工で女の子が沢山いた、梶さんは小学校の先生、落合さんはその弟と土細工をしていたので、皆は土瓶屋と呼んでいた。家の南隣りは橋野さんで、この町きっての金持ちであり、大きな構えであった。その隣りの西岡さんは小学校の先生、磯崎さんは薪炭商、田辺さんは経師屋であった。この10軒はすべて士族出身であって、少し前までは腰に刀を差した連中であるから、商売はしていても、その子供たちの躾は、比較的に厳格で儀礼もまた、昔ながらの風習が残されていたのである。予は6歳になって小学校にはいった。小学校と言っても、今ある学校ではない。家から程近い寺町にある威徳寺という寺がそれであって、生徒の多い寺子屋と見れば間違いない。寺の本堂が教室で、庫裏が職員室、勿論すべてが畳で、その上に黒板が右向き、左向きに置かれていた。寺の半鐘が鳴ると、予ら数十人の生徒は本堂の隅に積みかさなねてある文庫を持ち出し、畳の上にきちんと座って教えを受けるのである。科目は読本と算盤と習字の三つで、その教科書は手習い草紙と石盤、硯、蝋石、だけである。いよいよ授業が始まると予らは文庫の蓋を取って、かけごと称する内箱を裏返しにして上に置き、授業が終わると、全てのものを中におさめて、所定の場所に積みかさねる、と言う事になっていた。

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